定員内でも扉を閉めない
高層ビルの朝、真鍮の点検鍵が雨宮史緒へ渡された。
「定員内です。再起動して扉を閉めて」
管理会社の課長の声も、エレベーター内で鳴る軽い電子音も、前の人生と同じだった。
史緒は新人設備員として指示に従った。十二人を乗せた箱が上昇を始めた直後、制動装置が外れ、地下まで落下した。姉もその中にいた。
会社は「定員超過による想定外の故障」と発表し、再起動操作をした史緒へ責任を負わせた。後に彼女が見つけたのは、課長が検査会社へ金を払い、摩耗したブレーキを合格扱いにした記録だった。
二度目の朝。
史緒は真鍮の鍵を差したまま、回さなかった。
「扉は閉めません。全員降りてください」
乗客が時計を見てため息をつく。姉も前と同じように「一階くらい平気でしょ」と笑った。
史緒は姉の手首をつかむ。
「平気じゃない。階段で行って」
課長が肩越しに鍵へ手を伸ばす。
「苦情になるぞ。表示は正常だ」
「正常なら、無人で試せます」
史緒は十二人全員を降ろし、代わりに点検用の重りを一つだけ床へ置いた。扉を開けたまま保守モードに切り替え、遠隔でブレーキ試験を開始する。
箱が二十センチ上がる。
金属を引っかく音。
次の瞬間、箱は急に下へ沈んだ。史緒があらかじめ差し込んだ非常爪がガイドレールへ噛み、床から半階下で停止する。空の昇降路に轟音が反響した。
乗客たちの顔から苛立ちが消えた。
課長が逃げようとする。史緒は点検鍵の持ち手を割った。内部から小さな記録媒体が落ちる。前の人生で姉の遺品に紛れていたものだ。そこには検査偽装の送金記録が保存されていた。
午前八時二分。以前はビル全館へ《墜落事故・多数負傷》が流れた時刻。
館内放送が鳴った。
《設備異常を検知。乗客は全員避難済み。負傷者なし》
姉のスマートフォンにも同じ通知が届く。彼女は画面を見てから、史緒へ初めて違うことを言った。
「一階どころか、これから先も一緒に階段を上ろう」
閉じなかった扉の向こうに、二人ぶんの未来が残っていた。