家柄が釣り合わない夜
神谷登紀子は、紫苑を呼びつけ、離婚届をテーブルへ置いた。
「理玖にはもっと家柄のいい相手がいるの。あなたのご両親は、古い会社を細々とやっているだけでしょう? 神谷家とは釣り合わないわ」
紫苑は離婚届を見つめた。理玖が帰宅するまで返事を待つと言っても、登紀子は聞かない。結婚後、紫苑が家名を出さず働いてきたことを、登紀子は『後ろ盾がない証拠』と受け取っていた。紫苑は何度傷つけられても、理玖が自分で母と向き合う日までは黙ると決めていた。
その夜、登紀子は会員制倶楽部の個室を予約し、紫苑の両親まで呼びつけた。両家の格の違いを見せつけ、話を終わらせるつもりだった。
先に着いた登紀子は、支配人へ命じた。
「相手は格式を知らない人たちよ。粗相があっても、神谷家とは別だと分かるようにして」
やがて紫苑の両親が、ごく普通の黒い車で到着した。父は地味なスーツ、母は飾りのない真珠を着けている。
登紀子が立ち上がり、離婚届を広げた。
「率直に申し上げます。お宅と当家では――」
言い終える前に、倶楽部の扉がすべて開いた。
理事長、支配人、料理長、さらに神谷家が長く取引してきた銀行の頭取までが並び、紫苑の父へ深く頭を下げる。
「槙原総合グループ会長、本館へようこそお戻りくださいました」
槙原家は、商社、銀行、通信、資源、都市開発を束ねる世界的な創業家だった。倶楽部も、神谷家の会社が入る本社ビルも、槙原グループの所有である。
登紀子は椅子に手をついた。
「古い会社と聞いて……」
紫苑の父は穏やかに答えた。
「創業して百八十年ですから、古い会社には違いありません」
そこへ理玖が駆け込み、離婚届を手に取った。彼は署名欄を見ずに二つに裂いた。
「母さん、僕は全部知っていた。紫苑が家名を使わずに生きたいから黙っていただけだ」
登紀子は紫苑の母の真珠に目をやった。倶楽部の肖像画に描かれた初代会長夫人と同じ、槙原家当主の証だった。
頭取が書類を差し出す。
「本日、槙原家の資産承継が完了しました。筆頭受益者は紫苑様です」
倶楽部の新しい所有者名が、登紀子の目の前で読み上げられる。
「槙原紫苑様」
紫苑は離婚届の破片を見下ろし、静かに顔を上げた。
「家柄が釣り合わないというお話、どちらのお家のことでしょう」