岸を離れない休憩室
穂波の休憩室は、船の中にあるのに岸を離れない。
夜行フェリーのターミナル係。出航後の船内点検を手伝う日は、係員用の小部屋で次の作業まで待つ。窓の外には黒い海と、遠くなる港の照明。けれど休憩室の床はエンジンの振動を受け、ずっと同じ場所に留まっているように低く震えていた。
午前零時二十八分。雨が丸い窓へ斜めに流れる。
蛍光灯は弱く、空調の吹き出し口が周期的に鳴った。ぶうん。止まる。ぶうん。壁の向こうでは換気用のファンが回り、食堂の食器洗浄機が最後の水を巡らせている。
穂波は紙コップへコーンスープを入れた。船がゆっくり揺れるたび、黄色い表面が片側へ寄り、戻る。
港に残したものを考える夜がある。
先月、長く付き合った人と別れた。喧嘩ではなく、暮らす場所を決める話の途中で、二人の地図が重ならないと分かった。穂波は海のそばを離れたくなく、相手は山の近くへ行きたかった。それだけのことなのに、出航のたび、自分だけが置いていかれた気持ちになる。
壁には航路図が貼られ、港と港の間を一本の青い線が結んでいた。実際の海には線などない。暗い水の上を、レーダーと灯りと経験で進む。穂波は、その見えない道を毎晩たくさんの人が渡っていることを知っていた。目的地が違っても、途中の揺れを同じ船で受ける時間がある。
エンジンが一定に回る。
雨が窓を滑る。
スープの粒が紙コップの中で回る。
ドアの外を靴音が通り過ぎた。少しして、丸窓の向こう、別の甲板に小さな懐中電灯が現れた。点検中の誰かが手すりを照らし、光を一度上へ向ける。
穂波の窓を横切るとき、光は短く止まった。
こちらに気づいたのか、ただ雨粒を確認したのかは分からない。穂波は紙コップを持ったまま、空いている手を上げた。
光はすぐ床へ戻り、甲板の先へ消えた。
船は岸を離れている。休憩室は同じように震え続ける。どちらが本当か考える必要はなかった。
窓の雨の向こうで、港の灯りが一つずつ小さくなる。穂波は最後の一口を飲んだ。底に残った粒は甘かった。
休憩終了の呼び出しが鳴る。
穂波は丸窓を一度拭き、黒い海を見た。行き先が誰かと同じでなくても、今夜の船には自分の戻る通路がある。
岸を離れる音を一人で聞くことが、もう罰のようには思えなかった。