差出人の欄
実生と父は、古い本を一箱だけ段ボールへ詰めた。
父の家の和室には、実生が置いていったものがまだ多く残っていた。制服、辞書、陶芸教室で作った歪んだ茶碗。けれど今日持ち帰るのは、文庫本十五冊だけと決めていた。
父は空いた隙間へ、赤いマフラーを押し込んだ。
「これもお前のだ」
実生は取り出した。
「いらない」
「高校のとき毎日してた」
「お父さんが選んだ制服用の色だったから」
「まだ使える」
「使える人に譲って」
次に父は、青い湯のみを入れた。
「これは家族で揃えたものだ」
「私の部屋に食器は足りてる」
「一個くらい増えても困らん」
「困るかどうかは私が決める」
湯のみも出す。本の背表紙だけが整然と並ぶ箱は、父にはひどく寂しく見えるらしい。
「思い出を何も持っていかないつもりか」
「本を持っていく」
「本は買い直せる」
「買い直さずに、これを持っていく」
実生は一冊を開いた。余白に父の字で「返すこと」と書かれている。中学生のとき、父の本棚から無断で借りたものだった。もう絶版になっている。
「これ、お父さんのじゃない?」
「今さら返されても読まん」
「じゃあ、もらう」
「好きにしろ」
その言葉は昔なら投げやりに聞こえた。今日は、箱へ入れる許可だけとして受け取った。
蓋を閉じ、二人で宅配便の伝票を書く。父は宛名欄へ、実生が前に暮らしていた住所を書きかけた。
「そこじゃない」
「転居したのか」
「半年前に」
「なぜ教えない」
「急に来られたくなかったから」
父のペンが止まった。実生は新しい住所を自分で書いた。
「荷物を送るときだけ使って。来る前には連絡して」
「父親に住所を秘密にするのか」
「今、荷物のために教えた。訪ねていいという意味じゃない」
父は何も答えず、差出人欄へ「父」と書いた。
実生はその二文字を見た。
「名前で書いて」
「誰からか分かるだろ」
「役割じゃなくて、名前を残して」
父はしばらく伝票を見つめ、「父」を二本線で消した。その下へ、ゆっくり「野々宮達郎」と書いた。
配達希望日は、実生が在宅する日曜日の午後にした。時間指定まで彼女が丸をつける。父は口を出さなかった。
集荷に来た配達員が箱を持ち上げる。
「本だけですか」
「はい」
実生と父の声が重なった。
箱が玄関から運び出される。赤いマフラーも青い湯のみも残った。それでも空になった畳の一角を見て、父は「少し片づいたな」と言った。
実生は靴を履いた。
「届いたら連絡する」
「電話か」
「メッセージで」
「分かった、実生」
伝票には、娘でも父でもない二人の名前が並んでいた。箱はその間を、指定された時間にだけ運ばれていく。