帰らない練習
母に「嫌」と言えなかった美冬のために、私は断る練習を始めた。
毎晩、食卓を面接室に見立てる。私が母の役をし、美冬が短く答える。
「今すぐ帰ってきなさい」
「帰りません」
「家族を捨てるの?」
「私が決めます」
上手に言えたら丸、声が震えたらやり直し。間違えた日はスマートフォンを預かり、翌晩まで誰とも話させなかった。母に言葉を奪われた妹へ、正しい言葉だけを戻すためだった。勝手な言い方を覚えると危険なので、返答は私が作った一覧から選ばせた。練習中に部屋へ逃げないよう、美冬の扉の鍵も外した。
「お姉ちゃんに嫌って言う練習もする?」
美冬が冗談めかして尋ねたとき、私は笑った。
「私は無理なことを言わないでしょう」
逃げた日の母と違い、私は妹の選択を尊重している。友達から旅行へ誘われたときも、断るかどうかは美冬に決めさせた。ただし行けば母に見つかる可能性を三時間説明したので、妹は自分で断った。就職先も、交友関係も、住む場所も、美冬が失敗しないよう候補を絞るだけだ。
ある夜、練習の途中で美冬が立ち上がった。用意した台本を見ず、「明日から友達の家に住む」と言った。
「その言い方は責めているように聞こえる。もう一度」
「帰りません」
「誰の家? 住所は?」
「言いません」
私は丸を付けた。驚くほど上手だった。「住所は教えません」「連絡しないでください」も、私が一度も作っていない言い方だった。どこで覚えたのか尋ねても、美冬は答えなかった。母役の私が何を言っても、美冬は同じ三語を繰り返した。
翌朝、妹はいなくなった。服も通帳も、外して保管していた部屋の鍵も消えていた。食卓には練習表があり、余白に〈相手がお姉ちゃんでも同じ〉と書かれていた。すべての丸が赤い線で消されていた。
スマートフォンへ一件だけ届いた。
〈昨日のは練習じゃない。帰りません〉
私は胸が熱くなった。ようやく美冬は、母に言えなかった言葉を自分で使えたのだ。
〈よく言えたね〉
そう返信してから、位置情報を共有している家族用アプリを開いた。
〈迎えに行くから、そこで待っていて〉