帰りのバスで名前を呼ぶ

修学旅行の最後の朝、全員が制服へ戻った。

三日間だけ見ていた私服が鞄へしまわれると、旅館の廊下は急に学校へ戻ったようだった。与乃も、昨日の白いニットではなく、見慣れた紺のブレザーを着ていた。

前夜の恋バナで、好きな人の特徴を問われ、私は「名字でしか呼べない人」と答えた。三秒で特定され、枕を没収され、逃げ道のない約束を作られた。

帰りのバスが学校へ着くまでに、与乃を一度だけ名前で呼ぶ。約束は、たったそれだけだった。

教室では名字でしか呼んだことがない。話す機会はある。プリントを回すとき、掃除当番を代わるとき、班別行動で地図を見るとき。それでも名前は、告白より少し手前にある深い川のようだった。

与乃は通路を挟んだ斜め前の席に座った。

出発して一時間。最初のサービスエリアを過ぎても呼べない。同室の友人たちは後ろの席から、指で残り時間を示してくる。

県境を越えた。

見慣れた道路標識が増えた。

与乃は窓へ頭を預け、眠りかけている。今なら小声でも届く。けれど、返事がなかったらと思うと声が出ない。

学校まであと十分と先生が告げた。

バスが長いトンネルへ入る。車内が暗くなり、窓に全員の顔が映った。私は暗さに隠れて、ようやく息を吸った。

「与乃」

一度では届かなかった。

もう一度、今度は少し大きく呼ぶ。

彼女が振り向いた。トンネルの橙色の灯りが、一定の間隔で顔を照らす。

「なに?」

用事は考えていなかった。名前を呼ぶことだけで、計画は終わっていた。

「昨日の服、似合ってた」

一日遅れの感想だった。

与乃は一瞬驚き、それから笑った。

「ありがとう。やっと呼んだね」

トンネルを抜け、車内が明るくなる。後ろの席で、友人たちが声を出さずに万歳していた。

学校の校舎が見えた。

帰ればまた名字で呼んでしまうかもしれない。それでも、最初の一回はもう消えない。

修学旅行で覚えている景色は多いのに、いちばん鮮明なのは、暗いバスの中でこちらを向いた与乃の顔だ。