帰りの切符だけ
野宮芹香は、島を出る最終フェリーの乗船券を握っていた。
離婚して半年。元夫と始めた小さな宿を手放し、明日から福岡で働く。島に残る理由はもうないはずだった。
設楽晃平とは、宿の修繕を頼んだことから親しくなった。壊れた雨戸を直し、粗大ごみを運び、離婚届を出した日には何も聞かず港まで歩いてくれた。芹香は彼が好きだった。だから言えない。
離婚直後の自分が欲しいのは恋ではなく、帰る場所かもしれない。寂しさに耐えられず晃平へすがり、生活が整ったら離れる。それだけはしたくなかった。
芹香は宿の鍵を返す前夜、晃平の家へ行きかけてやめた。会えば残りたくなる。残れば、仕事も住まいも失った自分を彼に預けることになる。好きだからこそ、生活を立て直したあとにも同じ気持ちが残るか確かめたかった。確かめる間に失う可能性も、分かっていた。港の風が、片道の紙だけを何度も折り返した。知らない街へ行く怖さより、ここへ依存する怖さの方が大きかった。
出航まで九分。港の売店はシャッターを下ろし始めていた。
「向こうに着いたら、連絡しなくていいから」
晃平が言った。
「帰る場所を作って待ってるみたいで、重いだろ」
「帰る場所はいらない」
「うん」
「そうじゃなくて」
汽笛が一度鳴った。係員が乗客を急かし、桟橋のロープへ手をかける。芹香は改札の前から動けなかった。
「あなたを帰る場所にしたくないの。つらい時だけ戻ってきて、元気になったらまた出ていく人になりそうで」
晃平は乗船券を見た。
「じゃあ、帰ってこなくていい」
芹香の指が紙を強く折った。
「会いに来ればいい。帰る場所じゃなくて、行きたい場所として」
二度目の汽笛。係員が「今すぐ乗ってください」と声を上げる。
芹香は船へ走り、デッキから振り返った。好きとは言わない。晃平も待つとは言わない。
船内で予約サイトを開くと、次の連休の便が一席だけ残っていた。芹香は片道ではなく往復を選ぶ。
「帰る場所じゃなくて、会いに行く場所」
小さく言い直し、島へ戻る切符だけを先に購入した。