帰宅予定

柊木瑛斗の父は、十五年前に海で行方不明になった。死亡届は出されたが、母は家族共有カレンダーの父の欄を削除せず、毎年命日に《不在》と入力していた。

冷蔵庫に貼られた古い月めくりには、祖母の字で一つだけ決まりがある。

《帰ってこない家族の予定を、「帰宅」に変えてはいけない》

昔は玄関板の札を裏返す作法だった。家族が一人帰るたび、別の札を《外》へ移し、人数を必ず同じに保ったという。帰宅と書けば、家は誰か一人を外へ出して場所を空けるという。瑛斗は、失踪者を待ち続ける家族への戒めだと思っていた。

共有カレンダーの変更履歴には、父が消えた夜、祖母が一度だけ《帰宅》を入力して取り消した跡がある。同じ時刻に、当時十歳の瑛斗の予定が《外出》へ変わり、母が慌てて元へ戻していた。

二十五歳になった瑛斗は、母が命日ごとに沈むのを見かねた。今年だけは帰ってきたことにして食事をしようと提案した。母は拒んだが、瑛斗は共有カレンダーを開き、父の《不在》を一度だけ《帰宅》へ変更した。

午後七時、スマートロックが解除された。

《柊木和臣さんが帰宅しました》

玄関に人影はない。ただ濡れた革靴が一足増え、廊下へ海水の跡が続いた。母は誰もいない席へ味噌汁を置き、「おかえり」と笑った。

同時に瑛斗の予定が自動更新された。

《外出 開始:本日19:00 終了:未定》

瑛斗は居間にいるのに、母は視線を合わせなくなった。触れても肩を寒そうにすくめるだけで、彼の声には反応しない。スマートスピーカーへ話しかけると《外出中の利用者は操作できません》と返された。

翌朝、会社の勤怠アプリは無断欠勤を通知した。位置情報は自宅ではなく、父が消えた沖合を示している。玄関の家族写真では、父が中央に戻り、瑛斗の場所だけ海の色に抜けていた。

母から家族チャットにメッセージが来た。彼女は同じ部屋で、瑛斗の向かいに座っている。

《お父さんは帰ったよ。瑛斗はいつ帰るの?》

瑛斗が「ここにいる」と送ると、送信済みにならず、予定表へ一行が追加された。

《柊木瑛斗 帰宅予定なし》

父の空席から、日常と同じ声でスマートフォンが読み上げた。

『予定を保存しました』