引っ越し荷物にない椅子

引っ越しの日、影は荷造りしなかった物を一つだけ運ぶ。

品名を尋ねたり、見積書へ追加したりしてはいけない。影が人間と別の道を歩いても、先に新居を施錠しないこと。日没までに影が到着しなければ、運んだ物は旧居へ残り、持ち主は二度と取りに戻れない。

温井朔は、母の死後、実家を引き払うことにした。

家具は処分し、食器は妹の結絵へ送り、写真は段ボール二箱に詰めた。二十年使われなかった自分の部屋には、学習机の跡だけが壁へ四角く残っている。戻るつもりはなかったのに、何を捨てるにも帰る可能性を一つずつ減らす感触があった。

搬出開始の九時、朔の影が足元から離れた。

影は空の子供部屋へ入り、何かを両手で抱える形になった。人間には見えない。引っ越し業者は「影荷物ですね」と伝票の品目を一行空けた。規則どおり、誰も中身を尋ねない。

トラックが出ると、影は旧街道を歩き始めた。朔は助手席から追い越してよいが、声をかけてはいけない。交差点で小さくなり、やがて見えなくなった。

新居は単身用の一間だった。段ボールを積み、冷蔵庫を置き、カーテンを掛ける。床に影がないせいで、すべての家具が宙へ浮いて見えた。業者は日没まで玄関を閉めないよう念を押し、帰った。

午後、結絵から電話が来た。

「お母さんの椅子、どうした?」

台所にあった低い木の椅子なら処分した。母は晩年、そこへ座って靴紐を結んだ。だが結絵が言うのは、朔が幼稚園で使っていた子供椅子だった。背に名前を彫った、小さな青い椅子。家を探したときにはなかった。

「母さん、ずっと押入れに置いてたよ。兄ちゃんが帰ったら使うって」

大人が座れるはずもない。朔はそう答え、電話を切った。

日が傾いた。玄関は開けたままにしてある。廊下の照明が点き、他の住人の影が持ち主より先に帰っていく。朔の影は来ない。

日没の一分前、階段を上る黒い頭が見えた。影は両腕で何かを抱え、ゆっくり新居へ入った。足元へ戻る前に部屋の隅へ荷物を下ろす動作をした。そこには何も見えない。

日が沈み、影は朔の踵へ重なった。規則どおり、玄関を閉める。

翌朝、部屋の隅に子供椅子はなかった。代わりに、押入れの取っ手へ小さな木製ハンガーが掛かっていた。幼稚園の制服用で、背に《ぬくい さく》と母の字が残っている。

ハンガーには何も掛かっていない。

それでも朝日の中で、床には青い制服を着た子供の影が座り、見えない椅子の脚をぶらぶら揺らしていた。