往復切符を持たない狐
御庄野朔は、山間の小さな駅で働いている。
一時間に一本の列車を見送り、切符を売り、待合室のストーブへ薪を足す。冬の最終列車が出ると、駅には川の音と風だけが残った。
狐は、その時間にホームへ来た。
赤茶色の尾を引き、白線の手前できちんと座る。餌を求めるでもなく、線路の向こうを眺めている。
朔が改札鋏を鳴らすと、金属音に重なって心へ声が届いた。
『今日も誰も乗らぬ』
「最終は出たからね」
『お前も乗らぬ』
「駅員だから」
『毎日、見送る役か』
狐を往復と呼ぶようになった。
どこから来てどこへ戻るのか分からない。けれど雪の夜も、月の明るい夜も、最終後の十分だけ現れた。
朔は転勤を勧められていた。
町の大きな駅なら人も多く、昇進にもつながる。悪い話ではない。それでも返事を書けず、申請書を机の引き出しへ入れたままだった。
「ここを離れたら、往復には会えないな」
鋏を鳴らす。
『狐のために住む場所を決めるな』
「冷たい」
『人間は行き先を決めてからでないと、座れぬのか』
「切符を買うなら必要だ」
『私は持っていない』
「だからホームに入っちゃ駄目なんだけど」
『今さらだ』
朔は笑い、ベンチへ座った。
その夜は雪が細かく、駅舎の灯りの周りだけ白く見えた。水筒から根菜のスープをカップへ注ぐ。牛蒡と味噌の香りが湯気に混じる。
往復は少し離れた場所で尾を足へ巻きつけた。野生の距離を保ったまま、同じ静けさに座っている。
「転勤、断ろうと思ってる」
鋏を鳴らす。
『なぜ』
「ここが好きだから」
『それならよい』
「でも、後悔するかもしれない」
『後悔した日の列車へ乗れ』
「そんな簡単に」
『明日の狐が来るかは、明日の狐が決める』
朔は申請書のことを考えた。
断るか、受けるか。どちらかを一生の切符だと思うから重いのかもしれない。
翌朝、上司へ「一度、向こうの駅を見学してから決めたい」と伝えた。返事はあっさり許可された。
見学の日、朔は初めて勤務外に自分の駅から列車へ乗った。
窓の外、ホームの端に往復がいた気がした。改札鋏は鳴らなかったので、声は聞こえない。それでも狐は、行ってこいと言うように尾を一度振った。
数日後、朔は今の駅に残ることを選んだ。
怖さではなく、見て戻って決めた答えだった。
最終列車のあと、往復がいつもの場所へ来る。
朔はストーブへ薪を一本足し、スープの水筒を開けた。木の燃える匂いと味噌の湯気が、冷たいホームへ流れる。
「ただいま」
鋏を鳴らすと、狐の声が届いた。
『おかえり』
往復切符のない相棒は、帰ってきた人の隣で、静かに尾を丸めた。