忘れ傘の雨声
退職を控えた駅員は、倉庫いっぱいの忘れ傘を処分していた。
骨の折れた傘、子ども用、名前の消えた透明傘。
規則どおり、保管期限を過ぎた物から袋へ入れる。
売店で買った雨声スプレーを布へ吹くと、雨粒が当たっている間だけ、その傘が最後に聞いた言いかけの言葉を再生するという。
駅員は面白半分で試した。
「会議、間に合わな――」
「傘、持ったのに降ってな――」
「好きって言ったら、たぶ――」
どれも途中で終わる。
持ち主が傘を閉じた瞬間、聞こえなくなった言葉らしい。
倉庫の奥に、小さな黄色い傘があった。
二十年以上前の旧駅舎から移された物で、処分台帳から漏れていた。
持ち手の傷に見覚えがある。
雨のホームへ持ち出し、スプレーを吹いた。
「お父さん、まだかな。来たら、怒らないでって言お――」
幼い娘の声だった。
離婚した年、娘が母親の家へ移る前、駅で父を待った日がある。
駅員は急な勤務で迎えに行けず、同僚へ頼んだ。
後で電話をしたが、娘は「別に待ってない」と言った。
そのまま会う回数が減り、今では年賀状だけの関係だった。
黄色い傘がなぜ忘れ物になったのか、駅員は思い出した。
娘は待ちくたびれ、雨がやんだあと、傘をベンチへ置いて帰ったのだ。
「何を怒らないでほしかった」
駅員が尋ねても、傘は同じ途中の言葉しか返さない。
二十年前の答えは分からない。
父を嫌いになったことか。
母についていくことか。
迎えに来てほしいと願ったことか。
駅員は娘へ電話した。
何度か呼び出し、切ろうとしたところでつながった。
「黄色い傘を見つけた」
娘は長く黙った。
「まだあったの」
「何を怒らないでほしかったんだ」
娘は笑った。
「覚えてない」
「傘は覚えてた」
「傘に聞けば」
「途中までしか話さない」
娘の声が少し柔らかくなった。
「じゃあ、今のこと話す?」
駅員はホームの屋根の下へ移った。
雨が傘から止まり、幼い声は消えた。
二人は、退職後の予定や、娘の仕事、孫が傘をすぐなくすことを話した。
二十年前の続きを正しく結ぶ会話ではなかった。
今から始められる別の文章だった。
黄色い傘は修理し、娘へ送った。
娘は使わず、玄関へ置いているという。
駅員は退職後、忘れ物倉庫の整理を手伝うボランティアを始めた。
雨声スプレーはもうない。
それでも持ち手の傷や、子どもの字の名前をよく見る。
物が覚えた途中の言葉を、必ず持ち主へ返せるわけではない。
けれど言いかけたまま離れた人へ、自分から続きを尋ねることはできる。