扉を開けないまま

インターホンの画面に、母の頭頂部が映っていた。

千景は息を止めた。午後十時十二分。来るなら前日までに連絡して、と伝えたのは三日前だ。

チャイムがもう一度鳴る。

『千景、いるんでしょう。電気ついてるわよ』

応答ボタンを押した。

「帰って」

『顔を見て話しましょう。開けなさい』

「今日は開けない」

『親を廊下に立たせるの?』

母は紙袋を持ち上げた。千景が実家へ置いてきた冬服だ。紺のコート、白いセーター、母が選んだ服ばかりが透明な袋から見える。

『これを渡すだけ』

「宅配で送って」

『すぐそこにいるのに、どうしてそんな無駄をするの』

「連絡なしで来たから」

母の顔がカメラへ近づく。

『あなた、最近おかしいわよ。家族にまでルールを作って』

「家族だから作るの」

『誰にそんなことを教わったの』

「今、その話はしない」

廊下の照明が自動で消え、画面が暗くなった。母が足を動かすと、また白い光がつく。帰る気配はない。

『開けるまで待つから』

「十五分したら管理会社に連絡する」

『実の母親を通報するの?』

「帰らない人を連絡する」

自分の声が震えている。千景は玄関から一歩下がり、チェーンが掛かっていることを確かめた。開けないと決めた扉の前でも、体は昔のように、母を怒らせた罰を待っていた。

画面の中で、母が紙袋を床へ置いた。

『じゃあ、もう二度と来ない』

「それはお母さんが決めること。私は、連絡して約束した日なら会う」

『どこで』

「家じゃないところで」

『私は他人なのね』

「他人じゃない。でも、この家の住人でもない」

母はしばらく動かなかった。やがて紙袋を持ち直す。

『服はどうするの』

「処分していい」

『一着も?』

「必要なら自分で買う」

母の肩が落ちたように見えた。千景は扉を開けて慰めたくなる衝動を、両手を握ってやり過ごした。境界線は、相手が泣かない場所に引くものではない。

『来月なら、いつ』

「第一土曜の昼。駅前の喫茶店」

『十二時?』

「十二時半」

『……分かった』

エレベーターの到着音がして、母の姿が画面から消えた。千景はすぐには動かなかった。エレベーターが一階へ下りる表示を、三、二、一と見届ける。

廊下には何も残されていなかった。母は紙袋を持って帰った。

千景は玄関の照明を消し、キッチンへ戻った。冷めた茶を温め直す。扉を開けなかったことを、勝ったとも、母を拒絶したとも思わなかった。

カレンダーの第一土曜に、〈母と外で〉と入力する。場所の欄には自宅ではなく、駅前の喫茶店。

保存を押すと、予定は小さな四角の中に収まった。

千景の部屋は、その外側に静かに残っていた。