手を挙げない三十秒

冬木詩歩は、沈黙が続くと自分の責任だと思った。

職場の係決めでも、友人との店選びでも、誰も答えない時間に耐えられない。胸がざわつき、誰かが困る前に「私がやります」と言った。頼まれてから断れないだけでなく、頼まれる場所へ自分から立っていた。

住んでいるマンションの集会で、秋祭りの担当者を決めることになった。仕事内容は出店の申請、備品の管理、当日の受付。去年の担当者が説明を終え、司会が尋ねた。

「どなたかお願いできませんか」

会議室が静かになった。

詩歩は膝の上で右手を開いた。仕事は忙しいが、休日を二、三日使えばできる。ここで引き受ければ話が進む。若い住民がやるべきだと思われているかもしれない。

十秒が過ぎる。椅子の軋む音がする。

詩歩の右手の爪が、左の掌へ細い跡をつけた。黙っているだけなのに、何かを拒絶しているようで息が浅くなる。誰も彼女を見ていない。それでも頭の中では、役に立たないと思われる視線がいくつもこちらを向いた。

詩歩の肩が少し上がった。

去年はごみ置き場の清掃当番を増やし、一昨年は防災用品の一覧を作った。誰かに命令されたわけではない。そのたび「助かります」と言われ、帰宅してから後悔した。

二十秒。

司会がもう一度、「いかがでしょう」と言う。

詩歩は手を挙げなかった。代わりに、紙コップを両手で包んだ。中の麦茶はぬるく、縁が少し柔らかくなっている。視線を伏せて逃げるのではなく、前を向いたまま黙っていた。

三十秒後、担当は次回までに各階で相談することになった。会議は少しだけ予定より延びた。誰かが困った顔をしたが、詩歩が埋めなければ壊れるほどの沈黙ではなかった。

帰りに掲示板の募集用紙を見た。名前の欄は空いている。ペンも紐で下がっていた。

詩歩は書かずに通り過ぎた。引き受けなかった達成感はなく、胸にはまだ落ち着かない空白がある。

エレベーターの中で、彼女は両手をコートのポケットへ入れた。今夜、その手は誰のためにも挙がらないまま、自分の部屋まで帰った。