手放す日の木馬
子ども部屋には、古い木馬があった。
息子が幼い頃に乗り、孫のために残していた。
けれど息子は遠くで暮らし、子どもを持つ予定もない。
母は部屋を物置にしたあとも、木馬だけは窓辺へ置いていた。
夫が亡くなり、家を小さな部屋へ移ることになった。
木馬は持っていけない。
母が「寄付しよう」と口にした翌朝、木馬が床板一枚分、扉へ近づいていた。
次の朝も一枚。
木馬は手放すと決めた日から、夜ごと少しずつ玄関へ進んだ。
母は慌てて窓辺へ戻した。
翌朝にはまた一枚。
車輪などないのに、丸い脚で床を越えていく。
「行きたいなら勝手に行けば」
母は腹を立てた。
木馬はその夜、いつもの半分しか進まなかった。
息子へ電話すると、
「捨てていいよ」
と簡単に言われた。
母はさらに腹を立てた。
「あなたが欲しいって泣いたのよ」
「覚えてる。でも、今まで取っておいてくれたんでしょう」
息子は少し黙り、
「もう僕の物じゃなくて、お母さんの思い出なんじゃない」
と言った。
母は木馬の傷を一つずつ見た。
息子がクレヨンで描いた線。
夫が壊れた耳を直した釘。
熱を出した夜、息子が木馬の背で眠ったときの小さな染み。
物を残せば、その時間も残ると思っていた。
けれど息子は、木馬がなくても全部覚えていた。
玄関まであと三枚になった日、近所の母子支援施設へ連絡した。
担当者は「大きな玩具は置けないかもしれません」と言った。
母は断られることを少し期待していた。
見学に来た女の子が木馬へ触れた。
乗らずに、傷だらけの耳を撫でた。
「この子、ずっと待ってた顔」
母はその言葉で、寄付を決めた。
最後の夜、木馬は一枚も進まなかった。
母がまだ別れを言っていないからだと思った。
床へ座り、木馬に話しかけた。
息子が初めて乗った日。
夫が夜中に修理したこと。
孫を待つつもりで、誰にも使わせなかった年月。
「待たせてごめん」
母が言うと、木馬は小さく一度だけ揺れた。
翌朝、木馬は玄関の外にいた。
施設へ運ぶと、子どもたちが順番を争った。
あの女の子は最後まで待ち、木馬へ乗ると、母へ手を振った。
木馬の傷は消えない。
その上へ、新しい靴の跡が増えていく。
引っ越した部屋の窓辺には、木馬の写真を一枚置いた。
息子が訪ねてきて、
「なくなると広いね」
と言った。
母はうなずいた。
広さは空虚ではなかった。
誰かのところへ動いていった物が残した、風の通る場所だった。