押さない印鑑

御影凛の退職届は、調達契約書の隣に置かれていた。

電子機器メーカーで最後に承認するのは、新型バッテリー五万個の発注だ。発売日に間に合わせるには、今日中に品質証明へ印鑑を押さなければならない。

凛は試験成績書の製造番号を見て、手を止めた。三つのサンプルが、すべて同じ番号になっている。発行日は先月なのに、PDFの作成日は今朝。試験機関の署名だけが、他の文字よりわずかに粗い。

新製品は若者向けの小型充電器で、発売広告はすでに駅へ貼られている。五万個の向こうには、五万人の鞄や枕元がある。承認システムに残るのは、最後に押した人の名前だけだ。凛には、その数を「納期」とだけ呼ぶことができなかった。

「海外業者の書類はそういうこともある。契約を止めたら発売が飛ぶ」

部長は朱肉の蓋を開けた。

凛は印鑑を取らず、試験機関の公式窓口へ電話した。届いた成績書の番号を読み上げると、その番号は別製品のものだった。署名も複製。仕入先が納期を守るため、古い合格書を書き換えていた。

「発注を止めます」

「代替品はないぞ」

「合格した証拠もありません」

凛は契約を保留にし、倉庫へ受入禁止を連絡した。設計部には、容量を落とした既存品で発売を分割する案を送る。新人の陸が、承認欄の前で固まっていた。

「部長に押せと言われたら、僕なら押していました」

「印鑑は上司への返事じゃない。自分が確認したという記録。確認できないときは、空欄が正しい」

一時間後、設計部は既存品で初回生産を行い、新型は再試験後に切り替えると決めた。発売数は減るが、回収の危険は消えた。

部長は、発売停止の責任者欄へ凛の名を書くよう命じた。

凛は自分の名を書き、その下へ不正書類の番号と試験機関の回答を添えた。陸には照合手順を渡す。押さなかった責任なら負える。確認できない書類へ押す責任は、肩書が何であっても負えない。

契約書の押印欄は白いままにした。

その隣で、退職届にだけ自分の名を書き、提出箱へ入れた。