拍手のないアンコール

セラは拍手が怖かった。

幼いころ劇団に売られ、失敗するたび舞台裏で鞭を受けた。客席の拍手は、次の曲を強いる合図だった。歌を愛していても、鳴り止まない手の音を聞くと逃げたくなる。

ギデオン公爵は、彼女の歌を初めて聴いた夜に気づいた。

一曲が終わった瞬間、セラが袖口を握り潰したのを見て、彼だけ拍手をしなかった。次の私邸演奏会では、招待状に「曲後は白い布を掲げること」と記した。

客たちは冷酷公爵の奇行だと笑ったが従った。領主会議で反対者を一言で退ける男が、セラのためなら拍手の作法まで変える。

王宮での婚約発表の日、彼女は祝いの歌を一曲だけ頼まれた。

歌い終えると、王妃が立ち上がった。

「見事です。もう一曲」

客席が沸き、誰かが拍手を始める。たちまち音が広間を埋めた。

セラの呼吸が浅くなった。

ギデオンが片手を上げる。

「やめろ」

低い一声で、百人の手が止まった。王妃の前でも彼の顔は氷のままだ。

「公爵、祝いの席ですよ」

「彼女は拍手を望まない」

「歌姫が喝采を嫌うなど聞いたことがありません」

「今、聞いた」

王妃は不愉快そうに扇を閉じた。

「ではアンコールだけでも。婚約者として命じなさい」

セラは喉を押さえた。断れば公爵の立場を傷つける。彼がここまでしてくれたのだから、もう一曲くらい。

ギデオンは舞台へ上がったが、彼女の手も肩も取らなかった。出口へ続く幕を開け、静かに尋ねる。

「歌いたいか」

「歌わなければ、婚約発表が台無しになります」

「発表をやめればいい」

「あなたは、それでいいのですか」

「よくはない」

初めて、彼の声に執着が滲んだ。

「君を妻にしたい。毎日歌を聞きたい。だが、その望みを君の首輪にはしない」

王妃が眉を上げる。

「婚約まで歌姫の気分次第にするの?」

「彼女の人生だから当然です」

ギデオンは舞台中央をセラへ返し、自分は一段下へ降りた。

「歌う。帰る。婚約を断る。どれでも選べ」

静まり返った広間で、セラは白い布を一枚掲げた。

「今日は、もう歌いません。婚約の答えは、歌ではなく私の言葉でします」

ギデオンは客席を振り返る。

「聞いたな。今夜の演奏は終わりだ。拍手も要求も、彼女が望むまで禁じる」