持ち帰らない箱

宇佐美紫月は、遺品整理の最後に残った箱の前へ座った。

箱には〈家族のもの〉と母の字で書かれている。中には父の眼鏡、母の手袋、幼い紫月の靴、家族旅行の切符、何の鍵か分からない合鍵が入っていた。

母は物を捨てるたび、「思い出まで捨てるの」と紫月を止めた。大学の教科書も、別れた恋人からの贈り物も、実家の押し入れへ戻された。残すことは愛情で、手放すことは裏切りだという規則が、箱の側面まで染み込んでいる。

紫月は幼い靴を手に取った。母が何度も語った最初の一歩の靴だが、紫月自身にはその記憶がない。語られた記憶まで所有する必要があるのか、初めて考えた。

隣で妹が言った。

「お姉ちゃんが持って帰って。私は置く場所がないから」

長女だから。実家に近いから。独身だから。形を変えながら、同じ理由がいつも紫月へ届いた。

「私も持ち帰らない」

妹は困った顔をした。

「じゃあ、全部捨てるの?」

「欲しいものがあるなら、自分で選んで。箱ごとは引き受けない」

妹は手袋を一組取り、しばらく迷って旅行の切符を戻した。紫月は何も取らなかった。

母の手袋を嫌いだったわけではない。父の眼鏡を見れば、新聞を読む横顔も思い出せる。けれど、物を持たなければ記憶する資格がないような家族の決まりを、最後の箱まで守りたくなかった。

整理業者が処分方法を一つずつ確認した。眼鏡は再利用、布は回収、紙は溶解、鍵は金属として処理する。紫月と妹は、同じ確認書へ別々に署名した。

妹が小さく「冷たいと思ってた」と言った。

「何が?」

「何も取らないこと。でも、私に全部渡さないんだね」

紫月はうなずいた。自分が拒んだ荷物を妹へ押しつければ、母と同じことになる。

空になった箱だけが残った。業者が畳もうとすると、妹が「それもお願いします」と先に言った。

段ボールが平らになる音を、二人で聞いた。

帰り際、紫月は実家の鍵を管理会社へ渡した。手には何もなかった。妹と駅まで歩くあいだ、どちらも「形見」という言葉を使わなかった。