揚げ餅の沈むところ

 保科琢磨が「月白」へ入ると、店主は短冊にない揚げ餅の出汁あんを作り始めた。

「冬に来ると、これだったな」

 琢磨は九か月、店へ来ていなかった。朝の電車で動悸が止まらなくなり、会社を休職し、そのまま退職した。外食そのものが怖くなった時期もある。店主には何も話していないのに、好物だけは、いなくなった席に置かれたままだった。

 餅が油へ沈むと、細かな泡が白い角を包んだ。表面が膨らむ乾いた音のあと、熱い出汁あんがかけられ、鰹の匂いと湯気が立ち上る。箸を入れると外側はさくりと割れ、中の餅は柔らかく伸びた。

 明日は新しい会社の初出勤だ。

 面接では、前職を辞めた理由を「働き方を見直すため」と説明した。嘘ではないが、今も月に一度通院していること、混雑した電車を避けるため始業を少しずらす日があるかもしれないことは伝えていない。

 新しい社員証は、まだ封筒に入れたままだ。写真の中の自分は緊張を隠して笑っている。

 入社前に言えば、採用を見直される気がした。黙ったまま働き、何も起きなければそれでいい。そう考えていたのに、今夜になって、明日の電車の時刻を何度も調べている。

「早く食うと、餅で口を焼くぞ」

 店主が言った。

 琢磨は出汁に半分沈め、表面が柔らかくなるのを待った。硬いところはすぐには消えないが、湯気の勢いは少しずつ落ち着いた。

 会社の人事担当へメールを作る。

〈初日の午前中に十分ほど、通院と勤務時刻について相談する時間をいただけますか〉

 病名までは書かなかった。どこまで話すかも決めていない。配慮を断られるかもしれないし、特別扱いを求める人だと思われるかもしれない。それでも、倒れるまで隠す働き方へ戻るのはやめる。

 送信予約を明朝七時に設定した。初出勤を怖くなくすることはできない。電車へ乗れず、駅のベンチで止まる可能性もある。それでも、止まったときに連絡できる相手を一人作ってから向かう。

 餅の角は出汁を吸って、もう音を立てなかった。噛むと中心にはまだ熱があり、鰹の香りとやわらかな温度が、喉から胸へゆっくり沈んでいった。