文化祭が終わる音

 最後の椅子を床へ下ろしたとき、金属の脚が鳴った。

 ガタン。

「これで終わり」

 倉橋明日香が言う。

 文化祭の片づけを終えた教室は、昨日までの喫茶店が嘘みたいに普通だった。黒板のメニューも、窓の紙飾りもない。机は六列、椅子は四十脚。月曜になれば授業が始まる。

 ただ、明日香はその月曜から、この教室に来ない。

 父親の転勤が決まり、文化祭を最後に転校することを知っているのは、担任と島村宗一郎だけだった。

「みんなには、いつ言うの」

「月曜の朝、先生が」

「逃げたな」

「別れの会とか苦手」

 宗一郎は黒板消しを窓辺ではたいた。白い粉が夕日に浮く。

 二人は昨日、同じ喫茶店の制服を着て、一度もゆっくり話せなかった。客を案内し、皿を洗い、閉会後は集合写真の端と端に立った。

「文化祭で言うつもりだった」

 宗一郎が突然言った。

「何を」

「好きだった」

 明日香は笑おうとしたが、うまくいかなかった。

「過去形?」

「転校するって聞いたから」

「聞く前は?」

「好きだ、だった」

「じゃあ今は?」

 宗一郎は黒板消しを置いた。

 廊下の向こうで、別のクラスが机を戻す音がする。ガタン、ガタン。校舎全体が、祭りの形から日常へ戻っていく。

「今も、好きだ」

 今度は過去形ではなかった。

 明日香は自分の椅子へ座る。もう名前の札は剥がされている。

「私も、文化祭で言うつもりだった」

「昨日?」

「準備期間から」

「遅い」

「島村も」

 二人は笑った。

 付き合おう、とは言わなかった。遠距離になるとか、連絡するとか、未来の約束もしなかった。十六歳の二人には、来週さえ遠すぎた。

 ただ宗一郎は、机の中から文化祭の紙ナプキンを一枚取り出し、電話番号を書いた。明日香はその下へ、新しい住所を書くための空白を残した。

「まだ決まってない」

「決まったら埋めて」

「なくしたら?」

「覚える」

 教室を出る前、明日香はもう一度、自分の椅子を机へ上げた。

「片づけたばかり」

「最後だから」

 そして宗一郎と二人で、ゆっくり床へ下ろした。

 ガタン。

 文化祭が終わる音を、今度は忘れないように聞いた。

 翌週、その席には別の生徒の鞄が置かれた。

 けれど宗一郎の財布には長いあいだ、住所の空白が埋まった紙ナプキンが折りたたまれていた。