新しいチャットの一行目

都季は、母との古いチャットをアーカイブした。

最後のやり取りは半年前。〈そんな育て方をした覚えはない〉で終わっている。消すことはできず、開けば昔の呼び名と長い説教が並ぶ。だから削除ではなく、見えない場所へ移した。

代わりに、新しいチャットを作った。連絡先は同じ母なのに、まっさらな画面には一行もない。

都季は最初の文を打つ。

〈こんにちは。都季です〉

「娘です」でも「ごめん」でもない。自分の名前から始めた。

続けて、会うための条件を書いた。

〈来週土曜、駅前の喫茶店で一時間なら会えます〉

〈家には来ないでください〉

〈昔の話で責め合いになったら、その日は帰ります〉

送信後、既読がつくまで十分かかった。母は長い文章を書いているのかもしれない。都季はテーブルの上の合鍵を、小さな封筒へ入れた。会う日に返すつもりだ。

やがて返事が届く。

〈分かりました〉

それだけだった。いつもの〈母親に条件をつけるの?〉も、泣いているスタンプもない。

都季は念のため書く。

〈待ち合わせは十四時。遅れたら十五時で終わりにします〉

〈はい〉

妙に他人行儀で、胸が痛んだ。けれど、他人行儀は無関心とは違う。近すぎて踏み越えていた線を、まず目で見える太さにする言葉だった。

母からもう一通来た。

〈都季、コーヒーはまだ苦手ですか〉

古いチャットなら、〈子どものころから苦いの嫌いだったものね〉と続いただろう。

〈今は飲める。紅茶にするかもしれない〉

〈分かりました〉

都季は新しいチャットの一行目まで戻った。こんにちは。都季です。何度読んでも、そこには謝罪も許しもない。ただ、これから話す人間が誰なのかが書いてある。

古いチャットには、都季が既読をつけただけで〈返事は〉と催促された夜が残っていた。長文の途中には、幼いころの写真や、まだ持っているはずの合鍵の画像も挟まっている。アーカイブは過去を許す操作ではなかった。新しい会話を始めるたび、そこへ引き戻されないための棚だった。都季は棚を閉じ、白い画面だけを見た。

封筒の口はまだ閉じなかった。鍵を返すのは土曜日、自分の手で渡す。会うか、途中で帰るか、その次も話すか。どれも新しい画面の上で、一つずつ決めればよかった。