新しい住所を読む

百瀬絃の机には、郵便番号を書いた付箋が二枚あった。

一枚は今の街から二駅先。知っているスーパーがあり、友人の家にも近い。もう一枚は路線の終点にある町で、降りたことは三度しかない。空室の窓から、古い給水塔が見えた。

二つの部屋はどちらも審査に通り、今日の午後五時までに片方を断らなければならない。

二駅先を選べば、生活はほとんど変わらない。路線の終点を選べば、朝の電車は座れるが、夜に会う約束は減るだろう。家賃は同じ。広さも同じ。決定的な条件がなく、絃は一週間、二枚の付箋を持ち歩いた。

二十九歳の引っ越しには、理由が必要な気がしていた。将来のため、成長のため、何かを始めるため。けれど絃が終点の町を気に入った理由は、内見の帰りに聞こえた踏切の音が、知らない土地の音だったからだ。

知らない場所へ行きたい気持ちは、今の生活を嫌うこととは違う。そう思っても、遠くを選んで寂しくなった自分を、誰も慰めてはくれない。

十六時五十分、電気の使用開始手続きをするため、窓口へ電話した。オペレーターが尋ねる。

「新しいご住所をお願いします」

絃は二枚の付箋を見た。二駅先の郵便番号を指で押さえ、もう一枚を持ち上げる。

終点の町の住所を、番地までゆっくり読んだ。一度、町名の読み方を訂正された。少し恥ずかしくなり、それでも最初から言い直した。

電話を切ると、二駅先の管理会社へ辞退のメッセージを送った。

選ばなかった町の付箋は捨てず、手帳の最後のページに貼った。そこにも暮らせた自分がいる。

前日の同じ時刻、絃は二つの町を順番に歩いた。二駅先では知っているチェーン店の看板に安心し、終点では閉店した文具店のシャッターに不安になった。それでも給水塔の下で風の向きが変わったとき、ここで迷う自分を少し見てみたいと思った。

声にした住所は、まだ借り物の言葉のようだった。絃は馴染むまで何度でも言い直すつもりで、ガムテープを強く押さえた。

絃は残った付箋を玄関へ持っていき、空の段ボールに貼った。新しい住所はまだ舌になじまない。だからもう一度、今度は誰も聞いていない部屋で声にした。