旗綱は二本
沓掛佐平が守る旗塔には、綱が二本垂れていた。
右を引けば主家の白鶴、左を引けば無紋の赤旗が上がる。綱は同じ麻で、暗闇では結び目の癖しか違わない。赤は夜襲開始の合図だった。城外の味方へ出すためのものだが、今夜は敵の内通兵も赤を待っている。
門番頭が敵へ買われた、と佐平は聞いた。証拠はない。ただ、昨日まで右手で結んでいた刀を、今日は左へ差している。右腕を傷めたのではない。旗綱を左で引く稽古をした痕が掌にあった。
子の刻、門番頭が塔へ来た。
「殿の命だ。左を引け」
朱印状を見せる。印は本物だった。殿が脅されて押したのか、番頭が盗んだのかは分からない。
「赤を上げれば、城外の伏兵が動きます」
「だから上げる」
「伏兵は昨夜、北へ移りました」
嘘だった。番頭の目が一瞬、南の城外へ向く。敵の内通兵は南門にいる。
佐平は昼のうちに、塔上で二本の綱を交差させていた。左を引けば白鶴、右を引けば赤が上がる。ただし結び目を見れば分かる。番頭を綱へ近づけず、命令どおり自分で引かねばならない。
「早くしろ」
番頭が刀へ手をかけた。
佐平は左綱を握った。これを引けば白鶴が上がる。敵は赤を待ち続け、番頭の裏切りは証明できない。右を引いて赤を上げれば、南門の内通兵が動き、待ち伏せで捕らえられる。だが城外の敵本隊も来る。
旗を守るとは、布を敵へ渡さないことではない。誰に何を信じさせるかを、最後までこちらで決めることだった。
佐平は左綱から手を離し、右を掴んだ。
番頭が笑った。
「そうだ。赤だ」
「ええ。あなたが待っていた色です」
綱を引く。無紋の赤旗が夜空へ上がった。
南門の内側で、閂へ手をかけていた兵たちが一斉に動く。だが門扉の陰には、佐平が知らせておいた槍足軽が伏せている。短い悲鳴と鉄の音が重なった。
城外でも敵の松明が南へ集まり始める。番頭は刀を抜いた。
佐平は左綱を足へ絡め、力いっぱい踏んだ。赤旗のさらに上、塔の最頂部へ白鶴が滑り上がる。二旗同時は、内通発覚と反撃の合図として、夕刻に殿へだけ伝えてあった。
番頭の刀が届く前に、塔下で太鼓が鳴った。
「南門を開けろ。逆に討って出る」
二本の旗綱が、夜風の中で張り詰めた。