明日から無職の世界

交野穂澄は、人類最後の有給労働者だった。

終末期病棟だけは、人の手を残すという古い法律があり、穂澄は患者の身体を拭き、夜中の呼び出しに応えた。だが法律も廃止され、翌日から看護は完全自動化される。

穂澄が働き始めた頃、病棟にはまだ十人の看護師がいた。機械化が進むたび、投薬ミスも腰痛も減った。辞めていく同僚を、穂澄は引き止められなかった。患者にとって安全なほうが正しい。それでも、人の名前を呼ぶ回数まで減っていくのが怖かった。最後の一年、彼女の業務は手を握ることと、機械の完璧さを邪魔しないことだけになっていた。

最終勤務日、政府は《労働からの解放完成》を祝った。同僚たちは笑顔で制服を返し、余暇設計AIの説明会へ向かった。穂澄だけが空の名札を握っていた。

何者になるのか分からなかった。仕事が苦しい日は何度もあった。それでも「明日来ます」と言えば、明日の自分が必要だった。

翌朝、目覚ましは鳴らなかった。朝食も部屋の温度も最適だった。端末は百七十年分の娯楽候補を示した。

昼前、病棟から個人通信が入った。昨日まで担当していた老女だった。

「機械に頼めることは全部頼んだの。でも、窓のそばに座るのは、あなたがいい」

制服を着ようとして、もう職員ではないと気づいた。私服で歩く病棟は、昨日までと同じなのに他人の家のようだった。老女の部屋まで何度も立ち止まり、これは未練ではないか、自分が必要とされたいだけではないかと考えた。答えは出なかった。だから老女に、来てほしい理由を直接尋ねることにした。

穂澄は病院へ行った。入館AIは、無資格者の不要な訪問だと警告した。老女の同意で通されると、部屋は完璧に整い、痛みも呼吸も管理されていた。

老女は「機械の手のほうが温かいよ」と笑った。

「じゃあ、どうして私を?」

「あなたは帰りたそうな顔をするから。いてくれるのが選択だと分かる」

穂澄は、その言葉を少し残酷だと思った。自由であることは、いつでも去れることでもある。それでも椅子へ座り直した。

二人は何も話さず、雨を見た。三時間後、老女は穂澄の手を握ったまま亡くなった。

端末が尋ねた。

《実施された未登録行為を分類してください》

看護、介助、娯楽、宗教。どれも違う気がした。穂澄は自由記入欄へ打った。

――仕事ではない。

翌週から、彼女は一人で死にたくない人のそばへ座った。給料も勤務表もなく、断る日もあった。だからこそ、行く日は自分で選んだ。

人類は働かなくてよくなった。

穂澄はそのとき初めて、誰かのためにすることと、命令されてすることが、同じではなかったと知った。