明日が来ないパン屋

千々岩史織のパン屋では、毎朝五時に同じ生地が膨らんでいた。町の生活維持AIが復旧に失敗し、同じ営業日を再生し続けていた。

七時に開店し、昼に売り切れ、夜十一時五十九分に店を閉める。次の瞬間、また五時。小麦粉も電気代も戻り、客は前日のことを忘れた。

史織は最初、最高の一日を作ろうとした。焼き加減を覚え、客の注文を先回りし、売上を一円単位で最大化した。だが金庫の金も朝には戻る。百回目には、商売そのものが馬鹿らしくなった。

店を開けない日もあった。すると午前七時十分、裏口へ痩せた少年が来た。名前は惣弥。廃止された児童施設から抜け出し、毎朝、売れ残りを求めていた。

史織はパンを渡した。翌朝、惣弥は礼も覚えていなかった。

それでも毎日渡した。やがて史織は、彼に生地のこね方を教え始めた。惣弥は毎朝忘れる。塩と砂糖を間違え、発酵を待てず、熱い天板に触ろうとする。

史織は同じ説明を何千回もした。

自分には子どもも弟子もいなかった。店は亡父から継いだだけで、好きかどうか考えたこともない。明日のない世界で、惣弥が上達しないと知りながら教える時間だけが、妙に生きている感じがした。

ある朝、史織は疲れ果てて、塩を入れ忘れた。

惣弥が先に小皿を差し出した。

「これ、まだだろ」

史織は動けなかった。

「覚えてるの?」

「知らない。でも、手が知ってる」

惣弥の指には、何千回も生地をこねた癖が残っていた。記憶が消えても、選んだ動作の痕跡までは消えなかった。

その日、二人は新しいパンを作った。形は不揃いで、半分は焦げた。史織は店頭へ「明日のパン」と書いた札を出した。

客は意味を尋ねた。史織は「明日も同じなら、また作ります」と答えた。

午前零時、店の時計は止まらず進んだ。

翌朝、小麦粉は減ったままで、電気代の請求通知が届いた。惣弥は昨日のことを全部覚えていた。史織は初めて、失敗したパンを捨てるか迷った。

彼女は廃棄せず、薄く切ってラスクにした。

その後、史織は惣弥の里親にはならなかった。制度も事情も、そんなに簡単ではない。だが彼が施設を出るまで、毎朝店へ来られるよう雇用契約を結んだ。

働く理由も、教える理由も、明日があるから生まれるのではない。今日したことが、誰かの手に少し残ると信じるから生まれる。

史織のパン屋には今も、「明日のパン」という焦げ目の強い商品がある。