明日だけ有限

水科緒花は、四百八十九年生きて、明日を怖いと思ったことがなかった。

事故に遭っても再生する。病気は起きない。危険は不便でしかなく、誕生日は在庫確認のようなものだった。緒花は同じ会社で三百年働き、同じ恋人と百七十年暮らし、どちらにも不満を言わなかった。終わらないものは、急いで選ぶ必要がない。

政府が心理対策として〈有限日〉を試験導入した。一日だけ再生機能を停止し、怪我も死も取り消せなくする。申請者は少なかった。

緒花は理由もなく申し込んだ。

午前零時、端末に赤い表示が出た。

〈本日は死亡可能です〉

階段が急に高く見えた。包丁の刃が光り、熱い湯気に手を引いた。通勤道路では、いつも無視していた信号を二度確認した。恐怖は世界の輪郭を太くした。

午前中には、紙で指先を切った。赤い一滴を見て、緒花は救急窓口へ駆け込みかけ、途中で笑った。傷は小さく、痛みもすぐ引いた。それでも身体が自分へ送る警告を、彼女は四百年以上ぶりに最後まで聞いた。

昼休み、緒花は会社へ退職届を出した。

「有限日の情動変化による判断は無効にできます」と人事AIが言った。

「明日も同じなら、もう一度出します」

夕方、恋人へ電話した。百七十年の間に言えなかったことを全部話そうとして、結局「夕飯を一緒に食べたい」とだけ言った。

二人で鍋を囲んだ。熱すぎる豆腐を冷まし、喉へ詰まらせないよう小さく噛んだ。恋人は緒花の手を握った。

「今日だけ優しいね」

「今日だけ怖いから」

「明日は?」

「分からない」

午後十一時五十九分、緒花は窓辺に立った。死ぬために申し込んだのではない。それでも、もう戻らない一分が惜しかった。

零時になり、赤い表示が消えた。身体は再び不死になった。部屋も恋人も昨日と同じだった。

だが緒花は、退職届を撤回しなかった。恋人にも、関係を続けるか一緒に考えたいと伝えた。有限日に決めたからではない。翌日も同じ言葉を選べたからだった。

永遠は何も奪わない。だからこそ、決めなければ何も始まらない。

緒花は四百九十年目の朝、初めて期限のない人生へ、自分で締切を置いた。