明日に包む一口
大友綾は、午前二時の翻訳チームで最後の一人になっていた。
来週の評価面談までに、遅れているゲームの台詞をすべて仕上げるつもりだった。上司からは先月、「速度が足りない」と言われた。誤訳を減らすために確認している時間も、数字の上では遅さになる。
配られた作業量は、平均速度で進めても毎日十時間を超えた。綾はそれを計算していたが、口にすれば能力不足の言い訳になると思った。昼休みを削り、確認工程を自宅へ持ち帰り、それでも遅れた。恋人が夕食を温め直す回数だけが増え、二人で食べる約束はいつの間にかなくなった。
同居する恋人には、繁忙期だからと説明した。本当は、契約更新の対象から外れるかもしれない。帰れば心配される。心配されれば、自分でも怖いと認めてしまう。それで毎晩、終電を逃す時刻まで残った。
机には、コンビニの塩むすびが一つある。夕方に買ったが、食べる時間を惜しんで置いたままだった。米は冷え、表面が少し乾いている。塩だけの匂いが、袋を開けた瞬間にかすかにした。
綾の家では、米粒を残すと祖母に叱られた。食べ物も仕事も、始めたものは最後まで。残すことは、作った人と明日の自分への借りになると言われた。
綾は画面を見ながら食べた。ひと口、またひと口。空腹は消えたのに、最後の一片まで口へ運ぼうとした。胃が重く、喉が受けつけない。
それでも残してはいけない。台詞も、評価も、おにぎりも、今夜のうちに終えなければならない。
最後のひと口を持ち上げたまま、綾は恋人からのメッセージを開いた。〈起きてる。鍵、持ってる?〉。帰れとも、頑張れとも書かれていない。
綾はひと口を包み紙へ戻した。乾かないよう角を重ね、付箋に〈朝〉と書く。捨てるのではなく、明日の自分へ渡す形にした。
未翻訳の台詞は三十七行残っていた。綾は保存し、進捗欄へ正しい数字を入れる。上司へ送る言い訳は書かず、必要な作業時間を添えた。
パソコンを閉じ、午前五時のアラームを消す。包んだ一口を鞄へ入れ、恋人には鍵の絵文字を一つ返した。
帰宅して冷蔵庫の中央へ置くまで、その一口は崩れなかった。