明日の所有者は空欄

宿屋《明日亭》には、毎朝主人が変わる聖女がいた。

アマネの手首には暦形の呪印があり、夜明けになると宿帳の最初の署名者を新しい所有者として刻む。旅人たちは競って早起きし、治癒や祝福を命じた。

若い宿主ロディンは、父から宿と宿帳を継いだ夜、最初の頁を開いた。

《翌日の所有権は、日付変更とともに最初の署名者へ移る》

常連客たちは夜明け前から列を作る。

「今度こそ俺が聖女を使う」

「金貨十枚で先頭を譲れ」

アマネは厨房で静かに水をくんでいた。今日の主人から「夜明けまで百杯」と命じられている。

ロディンは宿の扉を閉め、列の客たちへ告げた。

「明日は休業です」

「宿帳さえあれば所有権は移る!」

客が窓から腕を伸ばし、署名しようとする。

ロディンは宿帳を暖炉へ投げなかった。燃やせば、最後に署名した自分へ所有権が固定される仕掛けだったからだ。

彼は製本糸をほどき、《翌日》と書かれた一枚だけを抜いた。

そして頁の中央にある小さな綴じ穴へ、宿の鍵を差し込む。

「宿帳を閉じる鍵は、契約も閉じる」

鍵を回すと、頁から日付がこぼれ落ちた。昨日、今日、明日という文字が白い灰になる。アマネの手首で暦形の印が一日ずつ消え、最後に空の四角だけが残る。

夜明けの鐘が鳴った。

誰の名も刻まれない。

アマネの持っていた百個目の杯が床へ落ちず、彼女の手の中で止まった。命令が消えても、自分で握っていたからだ。

「次の主人は」と彼女が尋ねる。

「いない」

「宿主であるあなたも?」

「宿代を払わない客には出ていけと言える。でも、人の主人にはなれない」

ロディンは裏口の鍵と、一週間分の賃金を渡した。

「今まで働かされた分だ。夜が明けたら、好きな場所へ」

アマネは鍵を受け取り、日の出と同時に宿を出た。

《明日亭》には奇跡目当ての客が来なくなった。ロディンは一人で百個の杯を洗い、休業の札を裏返す。

翌朝、扉を叩く音がした。

開けると、旅支度を整えたアマネがいる。手首の空白には、何も刻まれていない。

「忘れ物ですか」

「いいえ。仕事を探しに来ました」

「自由になった初日に、同じ宿へ?」

「町を一周して、神殿も商会も見ました。どこも私の力を欲しがりました。あなたは、私が百杯目を落とさなかったことを見てくれた」

彼女は裏口の鍵をロディンへ返さず、自分の腰へ結んだ。

代わりに、小さな木札を差し出す。自分で彫った文字があった。

《アマネ 宿番。命令不可。お願いは相談》

「この条件で雇ってください」

「断る自由もある」

「承知しています。だから選びました」

ロディンは木札を入口の名札掛けへ並べた。

「おはよう、アマネ」

「おはようございます、ロディン」

明日の所有者欄は空白のまま、その日が彼女の選んだ最初の今日になった。