明日の最後の行
母の机にある日記は、毎朝、翌日の終わりに真実となる一文を最後の頁へ書いた。
「傘は見つかった」
「夕食は少し焦げた」
「電話は鳴らなかった」
一文だけなので、理由も途中も分からない。
母は小さな出来事の予報として読み、忘れ物を防いだり、火を弱めたりした。
娘と疎遠になって半年後、日記にこう現れた。
「娘は私を許さなかった」
母は頁を閉じた。
娘の離婚を、本人が話す前に親戚へ知らせた。
助けを集めるつもりだった。
娘は、自分の人生を勝手に説明されたと怒り、
「もう連絡しないで」
と言った。
母は何度も謝罪文を書いた。
けれど許されない未来が分かっているなら、会いに行く意味はないと思った。
傷つくのも、娘をまた困らせるのも怖かった。
翌朝になっても、一文は消えない。
母は、許してもらうために謝ろうとしていたことへ気づいた。
許されないと分かった途端、行く理由を失う謝罪なら、まだ自分のための取引だった。
娘の家へ行き、玄関前から電話した。
「入れなくていい。返事もしなくていい。謝るだけ」
娘は長く黙り、扉を開けなかった。
母は、何をしたかを言葉にした。
相談なく話したこと。
善意を理由に、娘の秘密を自分の持ち物のように扱ったこと。
心配だったという説明を、謝罪の前へ置かないこと。
扉の向こうから声がした。
「許さない」
予知された一文だった。
母は泣きそうになり、
「分かった」
と答えた。
「でも、来月また謝りに来てもいい?」
「同じことを何度も言わないで」
「じゃあ、話を聞きに」
沈黙。
「来月、連絡して。会うかはそのとき決める」
母は帰った。
夜、日記の一文は真実になった。
娘は母を許さなかった。
母はその下へ、自分の字で書き足した。
「それでも話は終わらなかった」
翌朝、日記は新しい一文を記していた。
「湯が二人分沸いた」
来月のことか、別の日のことかは分からない。
母は急いで娘へ知らせなかった。
二人分の茶を用意する未来を、約束として押しつけたくなかった。
許される日を予知するより、許されない今日にも扉の前へ立ち、次の連絡を相手へ選んでもらうことが必要だった。
日記が見せるのは最後の一行だけ。
その前にどんな言葉を置くかは、まだ誰にも決められていなかった。