星を見るには牛乳を温める
星崎郁馬は、市民マラソンの一か月前に膝を痛めた。
医師から出場を止められ、半年続けた練習が途切れた。
走らない休日の使い方が分からず、郁馬は高原の小さな宿へ出かけた。星空が有名な場所なら、夜まで何もせずに済むと思った。
ところが到着した日は曇りだった。
宿の主人は「今夜は見えないかも」と言う。
「予報では晴れだったんですが」
「山の空は、予約を受けないから」
郁馬は昼間、散歩道を歩いた。
走らないよう注意されているので、ゆっくり進む。
最初は歩く人に追い越されるたび焦った。けれど道端の霜柱や、枯れ草に残る露は、走っていたら見えなかっただろう。
途中の牧場で、牛乳を一本買った。
売店の少年が、
「夜、温めるといいです」
と言う。
「星が見えなくても?」
「見えるまで待てる」
夜八時、空はまだ雲に覆われていた。
郁馬は宿の台所で牛乳を小鍋へ入れた。
弱火で温め、膜が張る前に止める。蜂蜜を少し、シナモンを一振り。
マグを持って外のベンチへ座った。
冷たい空気の中で、甘い湯気が顔へ上がる。
膝へ毛布を掛け、雲の流れを眺めた。
十五分。三十分。
走る練習なら距離や心拍を確認するところだが、今夜は何も測らない。
主人が玄関から顔を出した。
「まだ待つ?」
「牛乳が冷めるまで」
「なら、あと少し」
主人は隣へ座らず、灯りを一つ消してくれた。
雲の切れ目から、星が一つ見えた。
すぐに隠れ、また別の場所へ二つ現れる。
満天ではない。写真に撮るほどでもない。
郁馬はマグを両手で包み、その少ない光を見た。
大会の日、出場者たちは郁馬なしでも走る。
悔しさは消えない。けれど自分の体を壊してまで、今日までの練習を証明する必要はない。
膝が治ればまた走る。走れない間は、歩いて見えるものを覚えておけばよい。
翌朝、雲はすっかりなくなっていた。
青い空を見上げ、郁馬は少し笑った。
夜には間に合わなかった晴れも、朝には朝の役目がある。
帰りのバスで、空の牛乳瓶が鞄の中で小さく鳴った。
マフラーには蜂蜜とシナモンの香りが残り、膝には痛みではなく、昨夜掛けた毛布の温度がまだ淡く残っていた。