春の予防接種
猫の「弥生」は、動物病院へ行く日だけ姿を消す。
飼い主の貴澄がキャリーケースを出す音を覚えているらしい。押入れ、ベッドの下、カーテンの裏。毎年、探すところから始まる。
今年は冷蔵庫の上にいた。抱き下ろすと四本の脚を広げ、ケースの入口へつっぱる。
「すぐ終わるから」
言葉は通じず、低い声で抗議された。
病院の待合室には犬と猫の匂い、消毒液、緊張した動物の体温が満ちている。弥生はケースの奥で小さくなった。
診察台へ出すと、獣医の景都が背を撫でた。
「今年も元気ですね」
注射は一瞬だった。弥生は鳴かず、貴澄の腕へ爪を少し立てただけだ。
帰り道、公園の桜が散っていた。ケースの隙間から花びらが一枚入り、弥生の背へ載った。
家へ着き、扉を開けると猫は飛び出した。けれど遠くへ逃げず、窓辺で座っている。
貴澄はご褒美の餌を少し出し、隣へ座った。弥生は食べ終えると、注射した場所を気にしながら飼い主の脚へ身体を寄せた。
「怒ってないの」
尾が一度だけ床を打つ。
夕方、弥生は眠った。背に載っていた花びらは毛布へ落ちている。
貴澄は捨てず、手帳の予防接種の日へ挟んだ。来年また同じ苦労をするだろう。猫の背からは春の日なたと、病院の消毒液がほんの少し香っていた。
翌年の春、貴澄はキャリーケースを前日から部屋に置いた。毛布を入れ、餌を一粒置く。弥生は警戒したが、夜には中で眠った。病院へ行く朝、扉を静かに閉めると一度だけ鳴いた。診察後、公園で少し休む。桜は今年も散り始め、ケースの上へ花びらが二枚落ちた。帰宅後、去年の一枚を挟んだ手帳へ新しい花を重ねる。紙の間には香りがない。それでも弥生を撫でると、日なたと消毒液の間に、二度目の春の温度があった。
手帳を閉じる音に、弥生が片耳を動かした。貴澄の膝へ顎を載せ、すぐ眠る。花びらより確かな重みが、春の夕方をゆっくり温めていた。