時計のない町
小豆畑瑛理は、時間通貨監査官として山間の集落へ派遣された。住民百二十人の決済記録が三年間、すべて零だった。中央AIは、違法な時間隠しの疑いがあると判定した。
町には本当に時計がなかった。店の値札も、手首端末もない。パンを受け取った人は翌朝に薪を割り、診療を受けた家族は畑の水路を直す。誰が何時間働いたか、記録する者はいなかった。
「不公平になりませんか」
瑛理が尋ねると、パン屋の老人は答えた。
「なるよ。だから話す」
中央都市では、不公平はAIが秒単位で清算した。瑛理は誰にも借りず、誰にも貸さず、二百年分の高い残高を持っていた。両親の介護も外部サービスへ払い、友人の引っ越しも作業AIを送った。時間を奪わないことが礼儀だと思い、他人の時間へ入らずに生きてきた。
監査中、大雨で橋が流された。町の人々は合図もないのに集まり、土嚢を運び、幼児と老人を高台へ移した。瑛理は作業時間を記録しようとしたが、端末が圏外だった。彼女も土嚢を持った。途中で転び、知らない女性に腕を引かれた。
「この分は、何分借りたことになりますか」
女性は泥だらけの顔で笑った。
「あなたが次に誰かを引けば、それでいい」
翌朝、瑛理は監査報告を作成した。違法決済ありと送れば、町は中央口座へ接続され、過去三年分の推定時間を徴収される。適法と送れば、監査官として虚偽になる。
彼女は《決済活動なし》と記した。嘘ではない。ここで動いていたのは決済ではなく、関係だった。中央AIは集落を経済活動のない廃村候補に分類し、監視対象から外した。
瑛理は都市へ戻った。二百年の残高はそのままだったが、以前ほど豊かに見えなかった。休日、隣人が棚を運ぶ音を聞き、初めて玄関を開けた。
「手伝いましょうか」
所要時間を尋ねる前に、瑛理は棚の端を持った。時計のない町から持ち帰ったのは、時間では買えない借りを、返し切らずに生きる方法だった。
隣人の棚を運び終えると、二人で茶を飲んだ。何分手伝ったかは誰も測らなかった。瑛理の端末だけが、未決済行動を検知して何度も震えていた。彼女は通知を切り、次に借りを返す相手の名も決めないまま笑った。