暖簾の向こうのふろふき大根
大貫志郎が十二年通った「つづみ」は、今夜で店を閉める。
引き戸を開けると、壁の短冊は外され、酒瓶の棚も半分空いていた。最後の客は志郎一人だった。
「何にする」
「最後なのに、聞くんですか」
「最後だから聞く」
志郎は、ふろふき大根を頼んだ。離婚したばかりのころ、何を食べても味がしなかった志郎へ、店主が黙って出した料理だった。それ以来、娘の誕生日にも、昇進した夜にも、父の葬式の帰りにも頼んだ。
娘とは半年話していない。再婚を知らせる電話に、志郎が「好きにすればいい」と答えたからだ。祝うつもりだった。けれど、元妻の新しい家族の中へ娘まで行ってしまうようで、声が固くなった。娘は「分かった」と言い、それきりになった。
鍋の中で出汁が静かに揺れ、昆布の匂いを含んだ白い湯気が立つ。皿の大根は中心まで透け、上の味噌から柚子の香りが細く上がった。箸を入れると、抵抗なく二つに割れた。
「これ、家で作れますか」
「大根は煮ろ。味噌は焦がすな」
「それだけ?」
「それだけで、しばらくかかる」
店主は暖簾を外し、畳んでカウンターの端へ置いた。
志郎は娘とのトーク画面を開いた。何度も書いた謝罪を全部消し、「明日の夕飯、空いてるか。大根を煮る」と送った。既読はつかなかった。
来てくれる保証はない。味噌を焦がすかもしれない。半年分の言葉を、一度の食事で戻せるはずもない。それでも明日は鍋を買い、大根を一本選ぶ。返事がなくても、一人分だけには切らない。
娘が幼いころ、志郎は大根の面取りを手伝わせ、丸くなりすぎた欠片まで鍋へ入れた。離婚後、その記憶を口にすることはなかった。店主の味を再現できなくても、娘が覚えている家の味なら少しは残っているかもしれない。明日は昆布の場所を店主へもう一度だけ電話で聞くつもりだったが、閉店後の番号に甘えるのはやめ、自分で売り場を探すことにした。
店主が灯りを一つ消した。志郎は最後の大根を口へ運んだ。柚子味噌の甘さのあと、出汁を抱えた中心の熱が、閉店した店の奥のように長く残った。