最後に借りた本
卒業式の前日、私は図書室で最後の一冊を借りた。
返却期限は二週間後。卒業したあとになる。
「返せないよ」
カウンターの彼が言った。
彼とは三年間、図書委員を一緒にした。クラスが違っても、放課後だけは同じカウンターに座った。私が貸出印を押し、彼が返却本を運ぶ。話すことがない日は、同じ机で別々の本を読んだ。
春から、私は遠い町へ引っ越す。彼はこの町に残る。
「郵送する」
「送料、本より高い」
「じゃあ、返しに来る」
その言葉を約束にしたかった。
選んだのは、二人ともまだ読んでいない長編小説だった。上下巻の上巻だけ。
「下巻は?」
「学校に置いておく」
「ずるい」
「続きが必要なら戻ってくるでしょ」
彼は笑わず、貸出処理をした。
卒業式の日、式が終わってから図書室へ寄った。カウンターには誰もいなかった。机の上に、下巻が置いてある。
表紙に紙が挟まっていた。
『上巻を返した人に貸し出します』
彼の字だった。
私は上巻を抱え、空になった図書室を見回した。窓際の席、少し傾いた本棚、何度も押した貸出印。昨日まで毎日あったものが、もう利用できない場所になっている。
扉の外で足音がした。
彼が卒業証書の筒を持って立っていた。
「まだ帰ってなかった?」
「最後の戸締まり」
「委員の仕事、昨日までじゃない?」
「返却待ち」
私は上巻を差し出しかけ、引っ込めた。
「まだ読んでない」
「じゃあ返却できない」
「春休み中に読む」
「下巻、予約入れとく」
彼はカウンターの予約票へ私の名前を書いた。利用資格の欄で鉛筆が止まる。
『卒業生』と書き足した。
私たちは窓際へ座り、上巻の最初のページを開いた。校門前では写真を撮る声が聞こえ、運動部の後輩が先輩を呼んでいた。
一ページ目だけ、一緒に読んだ。
「続きは向こうで」
彼が本を閉じた。
「感想、送る」
「ネタバレ禁止」
「そっちも下巻を先に読まないで」
「図書委員だから規則は守る」
信用できなかったが、信じることにした。
引っ越し後、上巻を読み終えるまで一か月かかった。最後のページに、物語は何も解決しないまま『下巻へ続く』とあった。
私は本を箱に入れ、学校へ郵送した。送料は本より高かった。
数日後、下巻が届いた。正式な貸出票と、彼の短い手紙が入っていた。
『返却確認。予約本を送ります。閉館時間は未定です』
私は新しい町の図書館へ行き、窓際の席で下巻を開いた。
静かな空間の向こうに、同じ本を待つ人がいる。
卒業は返却ではなく、貸出期間の延長だったのかもしれない。