最後の一点
御手洗映里は、信用社会の設計者だった。
三十年前、行動を数値化すれば差別は減ると信じた。人の好き嫌いではなく、客観的な履歴で機会を配る。制度は成功し、映里自身は千点満点を十五年維持した。
娘は、その制度を憎んでいた。
低信用者の立ち退きに抗議して逮捕され、点を失い、都心への入域を禁じられた。映里は「規則を守れば戻れる」と言った。娘は「お母さんは数字と暮らせばいい」と通信を切った。
それから七年、会っていなかった。
ある日、娘の住む区で感染症が広がった。低信用者は中央病院の優先枠を使えない。娘の幼い息子も発熱したと知った。
映里が特例を申請すると、AIは答えた。
《親族への便宜供与は制度への信頼を損ないます》
かつて自分が書いた規則だった。
映里は都心を出た。許可外経路を選んで十点、低信用区行きの無認可車に乗って五十点、検問で身分を隠して百点。境界を越えるたび、扉が彼女を認識しなくなった。
娘の区では薬局の棚が空だった。映里は高信用者用に備蓄されていた薬を持ち出し、診療所へ運んだ。不正移送で点は一桁になった。
診療所の入口で、最後の警告が表示された。
《制裁対象者との接触を続けると、信用点はゼロになります。社会的保証をすべて失います》
扉の向こうに娘がいた。腕の中で、孫が苦しそうに息をしていた。
映里は入った。
娘は薬を受け取りながら、何も言わなかった。治療が終わり、孫の熱が下がるまで、二人は同じ椅子に座った。
夜明け前、映里の端末から最後の一点が消えた。住宅、年金、役職、移動権が順に無効になった。
「帰る場所、なくなったね」と娘が言った。
「そうね」
長い沈黙のあと、娘は古い部屋の鍵を差し出した。
「ここ、狭いけど」
自動扉はもう映里のために開かなかった。娘が手で押し、孫が内側から引いた。
ゼロ点になった朝、映里は初めて、自分を通すのが制度ではなく、人の手であることを知った。
その鍵には、点数も顔認証も必要なかった。ただの鍵だった。