最後の余白には名前を
朝比奈透子は町の交流図書室で、古い短編集へ感想を書くのを密かな習慣にしていた。誰にも見せられない言葉を、余白なら置いていけた。
透子は高校時代、八雲と交互に短編を書いていた。自分が一頁、相手が次の一頁。喧嘩の後、そのノートごと押し入れへしまい、仕事では広告の短い文だけを書くようになった。交流図書室の余白は、誰にも評価されずに文章を置ける唯一の場所だった。返事がついた最初の夜は怖くて本を閉じた。それでも翌週、続きを読みに来てしまった。知らない読者であってほしい気持ちと、八雲であってほしい気持ちが同じくらいあった。
ある週から、細い鉛筆で返事がつくようになった。
〈書くのをやめた人の文章じゃない〉
透子は三年前、友人との喧嘩をきっかけに小説を書かなくなった。返事の主になり得るのは、図書室の立石、夜勤明けに通う菅生、最近町へ戻った元親友の八雲の三人だった。
手掛かりは三つ。返事には、未発表原稿の一節「青い便箋の底」が引用されている。句点の代わりに小さな菱形を打つ癖。そして栞は、八雲が来なかった高校最後の朗読会の半券だった。
透子は最終頁へ書いた。
〈次の土曜、ここで待つ。名前を書ける人だけ〉
土曜の午後、八雲が現れた。手には短くなった鉛筆があった。
朗読会の日、八雲は透子の原稿を無断で新人賞へ送った。その結果を受け取りに行き、落選を知って会場へ間に合わなかった。怒られるのが怖くて、翌日「向いていないんじゃない」と先に傷つける言葉を言った。それきり謝れなくなったという。
「余白なら、返事を求めずに謝れると思った。でも、それも逃げてた」
透子はすぐに許すとは言わなかった。無断応募も、三年の沈黙も、一冊の書き込みでは消えない。
ただ、短編集の最後にはまだ白い頁が一枚あった。
八雲はそこへ、初めて自分の名前を書いた。
二人は図書室前の菓子店でシュークリームを買った。ベンチに座り、透子が先に一口かじる。薄い皮からクリームが少しこぼれ、八雲が昔と同じように紙ナプキンを差し出した。
透子は受け取り、白い頁を指した。
「次は、余白じゃなくて新しい紙に書く」
八雲は頷いた。
「今度は、名前から読む」