最後の刺繍はあなたの名

 黒いドレスの裾に誰かの名を縫い込むと、その人に一度だけ奇跡が起きる。代わりに、名を縫われた人は、着る者を永久に忘れる。

 イリスは石になりかけたアルドの隣で、銀の針を持っていた。

 呪いは足先から胸まで進んでいる。夜明けには心臓も止まる。治癒師は首を振り、残された方法として黒いドレスを差し出した。

 石化の光は、本来イリスへ向けられたものだった。アルドが押しのけて受けた。春には二人で小さな家へ移り、彼は窓辺に書き物机を、彼女は台所に香草棚を置くはずだった。死なせれば未来は丸ごとなくなる。救えば未来の中から、イリスだけがいなくなる。どちらを選んでも、約束した家へ二人では帰れない。

「名を縫えば、石化は消えます」

「そのあと彼は?」

「あなたを知らない人になります」

 アルドはまだ話せた。

「縫わなくていい」

「死ぬのに?」

「君を忘れて生きるよりは」

 イリスは怒った。忘れるのは彼だ。残されるのは自分だ。二人で選んだ家も、毎朝奪い合った毛布も、喧嘩して割った皿も、全部を一人分だけ覚えて暮らすのは彼ではない。

「勝手にきれいなことを言わないで」

 針へ糸を通す。

 最初の文字を縫うと、アルドの足から石が剥がれた。

「やめろ」

 二文字目で、指が動いた。

 彼は何度もイリスの名を呼んだ。忘れないように刻むみたいに。出会った日、彼女が偽名を使っていたこと。初めて本当の名を教えた夜、彼が「大切に呼ぶ」と約束したこと。その声を、イリスは一生覚えているだろう。

 最後の一文字だけが残った。

 これを縫えば彼は助かり、同時に二人の関係から自分だけが追い出される。

「朝になったら、あなたは自由よ」

「君がいない自由なんていらない」

「私は、あなたがいる不自由を選ぶ」

 イリスは泣きながら笑った。

 銀の針を布へ刺し、最後の線を縫う。

 アルドの胸を覆っていた石が砕け、床へ落ちた。呼吸が戻る。

 彼はゆっくり目を開け、枕元のイリスを見た。

「助けてくださったんですか」

 ドレスの裾で、完成した彼の名だけが白く光っていた。