最後の客を眠らせて
「ごゆっくりお休みください」
世界の果てにある宿〈終路館〉で、主人アルシオンは客の少ない日々を送っている。毎朝七つの部屋を掃き、古い宿帳を閉じ、誰も来ない道へランプを吊るす。老人に見える彼を、近隣の者は少し風変わりな隠居としか知らない。けれど宿の柱には、滅んだ王国の年号や神々の古い落書きがあり、この建物が世界より先にあったと噂する旅人もいた。
その夜、老竜サフィラが人の姿で泊まりに来た。彼女だけは、主人の声を聞いた瞬間に背筋を伸ばした。千年前、魔王軍を退けた大魔法使いの声と同じだったからだ。竜だった彼女は、その背中が天を覆う魔法陣の中心に立つのを確かに見ていた。
真夜中、宿帳の最後の頁が勝手に開いた。
死んだはずの魔王ザルディスが、黒い炎とともに帳場へ現れる。復活の器として世界の果てを選び、最初にアルシオンの魂を食らおうと手を伸ばした。窓外では星が一つずつ黒く染まり、遠い国々の魔法使いが同時に膝をつくほどの圧力が満ちる。
「やはり生きていたか、大賢者。今度こそ――」
アルシオンは欠伸をし、宿帳へ栞を挟んだ。
それだけだった。
魔王の黒炎が消え、巨大な魔力が一枚の毛布のように折り畳まれる。角も翼も呪詛も、眠気に負けたように崩れ、ザルディスは掌ほどの影となって空いていた七号室へ滑っていった。扉には「起こさないでください」の札が掛かる。黒く染まった星は瞬く間に元へ戻り、世界中の魔法使いは何が起きたかも分からず立ち上がった。
サフィラだけが見た。宿全体が一瞬、世界より巨大な魔法陣になったことを。千年前の決戦でさえ使われなかった、完全な永眠の術だった。
「なぜ、あのときこの魔法を?」
「当時は宿を始める前でね。寝床がなかった」
アルシオンは床の煤を箒で集め、焦げた宿帳の端を指で直した。魔王の足跡は玄関マットごと叩いて消し、七号室の鍵を鍵箱の一番奥へしまう。隣室の客は誰も目を覚まさない。
夜明け、サフィラが七号室へ耳を当てると、千年でも終わりそうにない寝息が聞こえた。主人は廊下の花瓶を整え、何事もなかったように彼女の部屋の扉を閉める。
そして世界を救ったときより穏やかな声で、いつもの挨拶を繰り返した。
「ごゆっくりお休みください」