最後の帰りの会

「忘れ物はありませんか」

退職を翌日に控えたグレゴール・セインは、最後の帰りの会でも同じことを聞いた。四十年間、小さな町の学校で子どもに字を教え、喧嘩を止め、冬には窓の隙間へ布を詰めた。背は曲がり、声もかすれ、壁の勇者絵よりずっと老いて見えた。

生徒たちが帰ったあと、内気な少女リネットが傘を取りに戻った。

教室にはグレゴールが一人。古い黒板を拭いている。その背後で、校庭の鐘が逆さに鳴った。

空が割れ、黒い玉座とともに魔王ゼグラートが降りる。百年前、勇者に討たれながら最後の魂を鐘の音へ隠した支配者だった。

『見つけたぞ、グレゴール。貴様が老いて死ぬ日を待っていた』

老人は黒板消しを置いた。

「明日まで待てなかったか」

魔王が大剣を振り下ろす。

グレゴールは教卓に立てかけた古い傘を開いた。

ただ、それだけだった。魔王の剣も闇も玉座も、傘の内側へ吸い込まれる。老人が傘を閉じると、百年越しの敵は一粒の黒い雨滴になり、石突から床へ落ちた。彼が靴底で踏むと、音もなく消えた。最後の戦いは、帰り雨を払うより簡単に終わった。

リネットだけが戸の隙間から見ていた。

リネットは、百年待った魔王の最後があまりに短いことに呆然とした。町の誰も鐘の異音に気づかず、夕飯の匂いがいつもどおり窓から流れてくる。グレゴールにとっては、世界を救うことも帰りの会の延長なのだろう。全員が無事に家へ着くまで教室を閉めない。そのためなら、魔王さえ忘れ物として片づける。

グレゴールは床を雑巾で拭き、ひび割れた鐘を遠くから指でなぞって直した。黒板に残った魔王の影を消し、傘を元の場所へ戻す。明日の退職式に使う出席簿を机へ置けば、教室はいつもの夕方だった。

「先生、ずっと勇者だったの?」

少女が尋ねる。

「ずっと先生でしたよ」

「明日から、誰が町を守るの」

グレゴールは彼女の傘を手渡した。

「君たちが学んだことを忘れなければ、それで十分です」

リネットは泣きそうな顔で頷いた。老人は空になった教室を見回す。魔王も、戦争も、勇者の名も、ここへ置いていく必要はない。

彼は最後に、いつもの問いを少女へ向けた。

「忘れ物はありませんか」