最後の木簡
陳杳は木簡へ「第三鼓」と刻んだ。
墨ではなく、小刀で深く刻む。雨に濡れても消えず、血で汚れても読める。偽の命令ほど丈夫に作るべきだと、彼は若い頃に学んだ。
退却する梁州軍は、石橋を越えて夜城へ向かっている。傷兵を含む八百。追う郭黙軍は倍。橋を渡り切るには、あと一刻必要だった。
木簡にはこうある。
――第三鼓、全軍退却。弓隊は橋南に伏し、追撃軍の側面を射よ。
敵がこれを奪えば、第三鼓まで動かず、南の伏兵を探す。実際の退却は第二鼓。伏兵はいない。待たせるだけの策だった。
「誰に持たせます」
校尉の樊澄が訊いた。
陳杳は木簡を自分の帯へ差した。
「将軍自ら捕まる偽令がありますか」
「将軍が持っていなければ、偽令に見える」
「捕まったあと、口を割らぬ保証は」
「口を割る。第二鼓で退くと正直に言う」
樊澄が眉を寄せた。
「では策が」
「敵は木簡と俺の言葉、どちらかを嘘と決める。将軍は拷問で早く楽になりたくて真実を吐いた、と郭黙は考える。だから刻んだ命令を信じる」
真実を偽書の盾にする。それが一つだけ残った読み合いだった。嘘を守るために必要なのは沈黙ではない。敵が疑いたくなる形で真実を渡すことだ。
第一鼓が鳴る。陳杳は殿軍十人と橋南へ残り、わざと旗を倒した。郭黙の先鋒が押し寄せる。十人は三人を斬って降伏した。あまり弱ければ罠、強すぎれば捕らえられない。敗軍らしい抵抗にも加減が要る。
陳杳は郭黙の前へ引き立てられた。木簡が帯から抜かれる。
「退却はいつだ」
鞭が頬を裂いた。
「第二鼓だ」
「伏兵はどこだ」
「いない」
郭黙は木簡を読み、笑った。
「老将は死が怖くなったか」
第二鼓が鳴った。橋上の味方が一斉に北へ走る。郭黙は追撃を命じず、南の林へ弓兵を向けた。存在しない伏兵を包むために。
陳杳は土へ伏し、橋を渡る最後の荷車を見た。樊澄が振り返る。陳杳は顎だけで行けと示した。
第三鼓が鳴る直前、郭黙はようやく林が空だと悟った。
その時、夜城の上に退却完了の黒旗が上がり、北門を閉じる命令が下った。