最後の生身
飛良泉沙維の身体で、生身なのは左手だけだった。
心臓は三十年前、肺は二十二年前、脊髄と右腕は火星工事の事故で替えた。脳も老化部分から少しずつ神経機械へ移し、医療AIは最後の更新を勧めた。
《左手を交換すれば、全身統合が完了します。予測寿命、百八十年以上》
左手は役に立たなかった。関節炎で曲がり、冬には震え、機械の右手より握力が弱い。全身の同期を乱す原因でもあった。
それでも沙維は断った。
妻が生きていたころ、二人は喧嘩のあと必ず左手で仲直りした。結婚指輪を外した跡が薄く残り、掌には娘を初めて抱いたときの火傷がある。記憶なら脳に保存されている。医療AIはそう説明した。
「これは記憶じゃない。記憶するたび変わる場所だ」
妻も娘もすでに亡くなり、友人の多くは全身更新して若い姿になった。彼らは沙維へ、過去に縛られていると言った。
やがて左手の壊死が始まった。交換しなければ感染が全身系へ広がり、数年で機能停止する。沙維は延命を断り、町の修理工房を若い整備士へ譲った。
最後の仕事は、十七歳の少年の義手調整だった。沙維は普段、設計図への署名を電子筆跡で済ませていたが、その日だけは左手で紙へ名前を書いた。線は震え、途中でインクがにじんだ。少年は事故前の手に似せた外装を嫌い、爪を黒く塗りたいと言った。母親は「元どおりに」と反対した。
沙維は自分の左手を見せた。皺、染み、曲がった指。
「元どおりの手なんて、誰にもない。使っているうちに、自分の手になる」
少年は黒い爪を選んだ。
工房を閉める日、沙維は医療AIの最終通知を削除した。左手でシャッターの鍵を回す。痛みで何度も失敗し、機械の右手が補助しようと動いたが、止めた。
鍵がかかると、掌に金属の冷たさが残った。
人間性が肉に宿るとは思わない。全身が機械でも、誰かを愛し、選び、悔やむことはできる。それでも沙維は、便利だから捨てるという決定だけを最後まで拒みたかった。
残り時間は短い。だから左手で、会いたい人への手紙を一通ずつ書き始めた。電子文なら誤字も震えも消せたが、彼は消さなかった。震えた文字は読みにくかったが、どの線も、彼がまだここにいる証拠だった。