最後の白紙契約
文字のない契約書が、止まった懐中時計の隣に置かれていた。
「君が署名すれば、すべてやり直せる」
時の司祭サイラスは、百回前と同じ台詞を口にした。
王宮記録官ユノは、最初の人生でその契約を受け入れた。暗殺される王を救うため、失敗した一日をやり直す力が必要だったからだ。
契約の代償は「周回の記憶を司祭と共有する」だけだと説明された。
嘘だった。
サイラスはユノが集めた未来の情報を独占し、暗殺者の手柄も、国を救った功績も自分のものにした。王が助かるたびに次の陰謀を仕込み、ユノを失敗させては時間を戻した。最後には彼女を首謀者として処刑し、次の周回でまた署名させる。
断頭台の刃が落ちるたび、ユノはこの小部屋へ戻った。
同じ白紙。同じ時計。同じ「すべてやり直せる」という誘惑。
百一回目、彼女は羽根筆を取った。
サイラスが満足そうに目を細める。
ユノは署名せず、筆先で懐中時計の蓋を開けた。内側には、ごく小さな契約文が刻まれている。
《署名者が拒否しない限り、共有は更新される》
拒否しない限り。
つまり毎回、署名する必要などなかった。サイラスは彼女に「自分から同意した」と思わせるため、白紙を置き続けていただけだ。
「やり直しません」
ユノは羽根筆を折った。
初めて、サイラスの顔から余裕が消える。
「王が死ぬぞ」
「暗殺者は東回廊の花瓶に短弓を隠している。実行役は厨房の副料理長。あなたが渡した通行札を持っている」
扉の外で待機していた近衛兵が動いた。ユノはこの契約の席だけを選び直すため、入室前に王へ封書を渡していた。百回分の知識のうち、必要なのは三行だけだった。
サイラスが白紙へ手を伸ばす。
「署名しろ! 共有が切れれば、私の未来視が――」
言い切る前に、彼の額に並んでいた百の金色紋が一つずつ消えた。未来視ではない。すべてユノから盗んだ記憶の数だった。
廊下から報告が響く。
「暗殺者を確保! 国王陛下、ご無事です!」
サイラスは白紙を握り潰した。
「次の周回で後悔するぞ」
「次はない」
前の人生では正午の鐘が鳴り終わると、懐中時計の針が逆回転を始めた。
一打。二打。十二打。
針は震えた。
そして、誰も見たことのない十二時一分へ進む。
窓から差す光が、昨日まで届かなかった床の一角を照らした。
サイラスが初めて言った。
「待ってくれ」
ユノは止まらない時計を手に、小部屋の扉を開けた。