最後の署名欄は空白
戴冠前夜の大広間で、コルディアス王太子は一枚の追加条項を掲げた。
「サビネッタ・レオカルドは、婚約契約へ王位継承権を奪う条項を忍ばせた。野心深い悪役令嬢との婚約を破棄する」
追加条項には、王太子が失政した場合、花嫁が王権を代行すると書かれていた。廷臣たちは震え、サビネッタを反逆者として囲む。
サビネッタは三年かけて、王権を強める条項ではなく、飢饉時の減税と議会監査を契約へ加えてきた。コルディアスは内容を読まず、彼女に政治を任せておけば自分は狩りへ行けると笑っていた。今夜だけは、契約に詳しい彼女という評判を犯罪の説得力に利用した。
追加頁の筆跡は彼女に似せてある。声を上げて否定すれば、取り乱した反逆者に見えるだろう。衛兵の槍が近づく中、サビネッタは最終頁の空白を思い出した。彼が軽視し続けた『花嫁の最後の同意』だけが、彼女自身を守る。
彼女は紙を奪わず、契約書の最後を見せるよう求めた。
「第三十条を確認いたします」
憲章裁判官ケイランが、王家金庫から原本を運んだ。第三十条――追加、削除、訂正はすべて、最終頁の花嫁署名をもって初めて有効となり、署名前の筆者名を欄外へ記す。
最終頁のサビネッタの欄は、白紙だった。
代わりに欄外へ、濃い金文字が浮かんでいる。
『追加条項筆者、コルディアス』
王太子自身が条項を作り、彼女が書いたように見せかけていた。
「王妃として野心がないか試したのだ!」
「署名していない者を、署名した罪で処刑することが試験ですか」
コルディアスは顔色を失い、婚約破棄を撤回する、今すぐ最終欄へ署名すればすべて許す、と命じた。
サビネッタは羽根筆を取った。ただし記したのは婚姻承諾欄ではなく、破棄受諾欄だった。
「最後に署名するのがわたくしなら、最後に選ぶのもわたくしです」
元婚約者へ背を向ける。ケイランが開いた扉の先から手を差し出した。サビネッタは空白の未来へ一歩を踏み出し、その手を取った。