最後の署名欄
遥香は、婚姻届の証人欄ではなく、共同代表契約書の最後の署名欄を見つめていた。
惺介との入籍日は、今夜と決めていた。区役所の夜間窓口は十一時まで。けれど夕方、長年一緒に働いてきた同僚から、会社を出て二人で事業を始めないかと正式な契約書を渡された。署名期限は、出資者との面談がある明朝までだった。
独立すれば収入は不安定になり、惺介が望む住宅ローンの審査も先送りになる。契約を断れば、今の会社で安定したまま結婚生活を始められる。
惺介は区役所前のカフェで待っている。メッセージが二件届いた。
〈窓口、あと一時間〉
続いて、
〈急がせたいわけじゃない。来ないなら、それも答えだと思う〉
机の上には、区役所の番号札と、共同代表用の新しい印鑑がある。番号札は薄く、印鑑は掌に重い。
カフェのレシートには、惺介が先に注文した二杯分の金額が表示されている。契約書には、共同代表二名と印刷されている。どちらの「二人」も、遥香一人の希望では完成しない。
遥香は、結婚を失ってまで仕事を選びたいわけではなかった。仕事を失ってまで結婚を選びたいとも言い切れない。二十九歳の終わりに、どちらか一つへきれいに並べ替えられるほど、人生は親切ではなかった。
だから、惺介に決めてもらおうと思った。「独立しても結婚する?」と聞けば、彼の返事を理由にできる。
電話をかけ、呼び出し音を三回聞いたところで切った。
契約書へ署名する。共同代表になれば、入籍を今夜しないと決まるわけではない。ただ、惺介が条件を受け入れなければ、二人の予定は終わる。その可能性を隠したまま窓口へ行くことはできない。
遥香は契約書を封筒へ入れ、印鑑を押した。朱肉が少しにじんだ。
番号札を持ってカフェへ向かう。惺介の前に座ったら、まず契約書の写真を見せる。そのあと彼が席を立つか、一緒に窓口へ行くかは、遥香には決められない。
それでも、自分が何を持って現れるかは決められる。
遥香は番号札と印鑑を同じポケットへ入れ、十一時までの道を走り出した。