最終頁の外側
伊奈波環は、借りた小説を一頁も読まなかった。
隣の席の千歳が、昼休みに何度も読んでいた本だった。環が題名を訊くと、「貸そうか」と言われた。
本を借りれば、返すときにまた話せる。
それだけの理由で受け取った。
翌週、千歳が訊いた。
「どうだった?」
「まだ途中」
「どこまで?」
「主人公が出てきたあたり」
「一頁目だね」
「鋭い」
本当は表紙しか開いていなかった。
返してしまえば、会話の用事がなくなる。だから環は毎週、「もう少し」と言って借り続けた。
本は鞄の中で教科書に挟まれ、角だけ少し白くなった。
一か月後、席替えの日が来た。
千歳は窓際、環は廊下側。隣ではなくなる。
放課後、机を動かす前に、環は本を返した。
「読み終わった?」
「ううん」
「どこまで?」
「最初の頁の前」
千歳は表紙をめくり、貸したときのままの栞を見つけた。
「ずっと読んでなかったの?」
「ごめん」
「つまらなそうだった?」
「違う」
教室には机を引く音が響いていた。友達が新しい席を確かめ、黒板に番号を書いている。
環は本の背を指でなぞった。
「返す理由がほしかった」
「返す理由?」
「借りたら、また話せるから」
「借りなくても話せばいいじゃん」
「それができたら借りてない」
千歳はしばらく黙り、本を鞄へ入れなかった。
「じゃあ、感想は聞けないね」
「うん」
「困るな。貸した側の楽しみなのに」
彼は教室の後ろへ二脚の椅子を並べた。
「今から一章だけ読む?」
「席替え終わるよ」
「隣の席じゃなくなる前に」
二人で一冊を開いた。
最初の頁を千歳が読み、次を環が読んだ。声に出すと、句読点のたびに互いの呼吸が近くなった。
一章を読み終えるころ、教室の机はすべて新しい場所へ移っていた。
環の席と千歳の席は、端と端になった。
「続き、また貸す」と千歳が言う。
「今度は読む」
「返す理由は?」
「感想を言うため」
「それ以外は」
環は答えず、本を受け取った。
翌日の放課後、廊下側の席から窓際まで歩き、二章目の話をした。
小説の最終頁はずっと先にあった。
けれど二人の記憶に残った物語は、表紙を開く前、借りた理由をようやく返したところから始まっていた。