有給届の青い線
伏見遥香は、有給休暇の理由欄を空けられなかった。
福祉相談窓口で働く彼女は、休む日にも「通院」「家族の用事」「行政手続き」と書いた。理由があれば、席を空けることを許してもらえる気がした。何もない日に休むのは、忙しい同僚へ仕事を置いていくようでできなかった。
冬から相談件数が増え、遥香は帰宅しても人の話し声を思い出した。湯船で相談記録の言葉を直し、夢の中で電話を取った。朝、靴を履く前に涙が出ても、顔を洗えば出勤できた。
三月の金曜、来月の勤務表が回ってきた。係長が「残っている休暇、年度内に使って」と言い、書類を机へ置いた。
遥香には七日残っていた。
申請用紙へ、月曜の日付を書く。理由欄でペンが止まった。病院の予約はない。家族との予定もない。ただ、朝から何も決めずにいたかった。
《私用》と書いてみた。
二文字では足りない気がした。休養のため、体調管理のため、業務継続のため。もっと職場の役に立つ理由へ直そうとして、青いペンで線を引いた。
書き直したのは、また《私用》だった。
係長は用紙へ印を押し、机の端へ重ねた。理由を尋ねなかった。
月曜の朝、遥香はいつもの時刻に目を覚ました。身体だけが勤務表を知らないようだった。スマートフォンには同僚からの連絡が一件あり、相談記録の保存場所を尋ねていた。
答えはすぐ分かる。返信すれば三十秒で済む。
遥香は画面を見たまま、業務用チャットの通知をその日いっぱい切った。保存場所は共有手順書にも書いてある。誰かが探す数分を、自分の休暇で埋めないことにした。
予定のない部屋は、思ったより居心地が悪かった。洗濯をすれば、買い物へ行けば、少しは有意義になる。遥香は何度も布団から出かけた。
昼前、窓から差した光が、有給届と同じ青色のカーテンを透かした。
遥香はパジャマのまま、冷蔵庫に残っていたプリンを食べた。皿へ移さず、容器の底をスプーンでこする。
明日になれば、相談はまた届く。七日の残りも、すべて使えるかは分からない。
それでもその月曜だけ、遥香は誰かの困りごとより先に、自分の静けさを置いた。
青い線の下に書き直した二文字は、一日が終わるまで、何の説明にもならなかった。