朝になれば消える募集

瑞季の転職オファーは、午前五時に失効する。

シンガポールの新規拠点。二年前から望んでいた仕事なのに、承諾画面を前に指が止まった。給与も役職も上がる。迷う要素などないはずなのに、内見サイトで海外の部屋を開くたび、凌平へ送れない写真が増えた。凌平とは付き合っていない。ただ、毎晩どちらかが「帰った」と送り、週末は同じスーパーへ行く。恋人と呼ばないまま、互いの冷蔵庫に何が足りないかまで知っていた。好きと言えば、彼に待つ役目を押しつける気がして言えなかった。自分は夢を選び、彼には寂しさだけを渡すようで卑怯に思えた。

二十三時、《話したい》と送った。既読はついたが返事はない。入力中の表示さえ出ず、瑞季は承諾画面とトーク画面を交互に開いた。

午前一時四十分、凌平からビデオ通話が来た。出張先のホテルの非常ベルが誤作動し、廊下からかけているという。背後にはパジャマ姿の宿泊客が並び、秘密の話には最悪の場所だった。それでも凌平は、部屋へ戻るまで待たなかった。部屋へ戻れるまで十分。瑞季の画面には、オファーの残り時間が表示されていた。

「受けるんでしょう」

「待たなくていいから」

「何を?」

「私を」

「頼まれてないのに、待つかどうか決めちゃ駄目?」

瑞季は笑えなかった。画面を閉じれば、朝まで一人で決められる。けれど凌平は騒がしい廊下で、逃げずにこちらを見ていた。

「遠距離なんて続かない」

「続けるか、付き合ってから決めよう」

「まだ付き合ってない」

「だから連絡を待ってた」

非常ベルが止まり、ホテルの係員が宿泊客を部屋へ戻し始める。通話を切る時間だった。

「待たなくていい」と瑞季はもう一度言った。

「それ、本音?」

「違う」

残り三時間十三分。瑞季はオファーのメールを凌平へ転送した。

「待たなくていい、じゃなくて。待つかどうかを、一緒に決めてほしい」

告白の返事は求めなかった。凌平が部屋へ戻る足音を聞きながら、瑞季は承諾ボタンを押した。

通話は切らず、朝の時差を二人のカレンダーへ登録した。