朝までに消す落書き
「落書きは、朝までに消します」
西城門の清掃員カルナは、門衛にそう答えて、石壁の赤い文字をこすっていた。
酔客の署名、子どもの絵、商人の宣伝。城門は国の顔だと役人は言うが、夜ごと汚す者は減らない。カルナは肩に古い刷毛を担ぎ、剥離剤と灰を使い分け、誰にも礼を言われず文字を消した。
門の陰では、浮浪児のベルが眠るふりをしていた。カルナが余ったパンを置いていくことを知っているからだ。
夜半、赤い落書きの最後の一画が、内側から光った。
それは落書きではない。敵国の転移陣だった。
石壁が水面のように揺れ、黒鎧の将軍が一人、こちら側へ踏み出す。手には軍門を開く鍵剣。彼が城門の閂へ触れれば、十万の兵が転移してくる。
「掃除夫しかいないとは、運がいい」
将軍は笑った。
カルナは濡れた布を桶へ戻し、壁削りのへらを持ち上げた。
「運が悪いのは、落書きのほうです」
鍵剣が振り下ろされる。
カルナは石壁をなぞるように、一度だけへらを引いた。
赤い転移陣から、一本の線が消えた。
たった一画を失った陣は意味を反転させ、こちらへ開く門から、向こうへ押し返す門になる。将軍の体は驚愕の表情ごと光の中へ引き戻され、鍵剣だけがこちらに残った。直後、陣の向こうで巨大な爆音が響く。集結していた敵軍の転移門が、内側から閉じた音だった。
ベルは見た。へらが動いた瞬間、将軍の鎧と鍵剣の間にある契約まで断たれていた。《国境消し》。地図に引かれた侵略線そのものを斬る、無敗の剣聖カルナの技。王国では十年前、敵へ寝返った裏切り者として名を消されている。
カルナは鍵剣を砕き、金属片を排水溝の回収箱へ入れた。赤い陣には剥離剤を塗り、刷毛でこすり、石粉で色を整える。将軍の靴跡も、焦げた空気の匂いも、夜明け前には消えた。
「おじさん、国を救ったの?」
「壁を一面きれいにしただけだ」
彼はベルへパンを渡し、余った白墨で小さな鳥を描かせた。門衛が来る前に消す約束で。
東の空が白み始める。カルナは鳥の絵を眺め、少しだけ笑ってから、冒頭と同じ声で言った。
「落書きは、朝までに消します」