朝六時、最後の青
午前五時五十分。朝倉慧は、空になった台所から榛名葵依へ送った。
〈まだ好きだ。行かないでほしい〉
未読。
葵依は隣の部屋で引っ越し業者を待っているはずだった。けれど壁越しに聞こえるのは、段ボールを運ぶ音だけ。顔を合わせればまた喧嘩になるから、最後の連絡もメッセージにしようと言ったのは彼女だった。
流し台には、青いマグカップが一つ残っている。二人で暮らし始めた日に色違いで買った。葵依は白、慧は青。白い方は昨夜、箱へしまわれた。
五時五十三分。未読。
玄関が開き、業者の声がする。慧は台所から出られない。出れば止めてしまう。止める資格があるのかも分からない。
五時五十五分、もう一通送る。
〈読んでくれたら、玄関に来て〉
未読。
青いマグの底には、洗っても落ちない薄い輪染みがある。葵依が初めて泊まった朝、コーヒーを半分残した跡だ。慧はそれを汚れではなく、始まりの印だと思っていた。
五時五十七分、トラックの扉が閉まる音。
慧は携帯を伏せた。葵依は読んだうえで来ないのだ、と決めた方が楽だった。
青いマグを持ち上げると、下から小さく折った紙が出てきた。
〈五時五十分まで台所で待つ。慧が来たら、白いマグを置いていく。来なかったら箱に入れる。それでも、私はまだ好き〉
紙の端に、白いマグを描いた小さな絵がある。
時計は五時五十八分。葵依は十分前まで、この台所にいた。慧がベランダで煙草を吸い、戻る勇気を探していた時間だ。
携帯が震えた。葵依の古いタブレットから、同期の遅れたメッセージが届く。
〈スマホはもう荷物の中。返事は読めない。言いたいことがあるなら、言葉で呼んで〉
送信時刻は五時四十九分。
慧は玄関へ走った。窓の外でトラックが発進する。追えば、最初の信号には間に合う。靴も履かずに叫べば、葵依へ届く距離だった。
けれど慧は、閉まるエレベーターの前でも、出ていくトラックの前でも、いつも一拍遅れてきた。今日だけ間に合わせても、二人の時間全部が直るわけではない。
午前六時。彼は青いマグを流し台へ戻した。
画面には、未読の〈まだ好きだ〉が残っている。
慧はそのメッセージを削除し、部屋の鍵をかけた。