朝焼けに返す名前
奪われた名を返すには、別の誰かが自分の名を代わりに差し出さなければならない。
名守りのエトラは、夜明け前の礼拝堂で小瓶を開けた。
中には、少年ミナスから奪われた名が青い光になって浮かんでいる。名を失った者は呼ばれても振り向けず、やがて自分が誰だったか分からなくなる。少年は祭壇の脇に座り、母親の顔さえ他人のように見ていた。
「返してください」
母親が床へ額をつける。「代わりなら、私の名を」
エトラは首を振った。母の名を差し出せば、少年は助かっても、母は息子との関係を失う。名のない者は契約も家族の記録も持てない。
「では私が」
老神官が進み出る。
「あなたの名では瓶が受けません。この子を心から選んだ者の名だけです」
礼拝堂が静まった。
エトラは少年を知っていた。三年前、路地で凍えていた彼へパンを渡した。名守りの仕事を始めてからは、読み書きを教えた。血のつながりはない。けれど少年は毎朝、彼女を見つけると誰より先に名を呼んだ。
今はその口が、エトラという音も忘れている。
小瓶の光が弱くなる。日の出までに返さなければ、名は完全に消える。
「私のを使います」
母親が顔を上げた。「あなたは、この子の何なのですか」
エトラは答えを探した。
先生。名守り。パンをくれた人。どれも本当で、どれも足りない。
「この子に呼ばれるのが、好きだった人です」
自分の名を紙へ書く。短いその名は、これまで何百もの盗まれた名を救ってきた署名だった。
紙を小瓶へ入れると、青い光が二つに分かれた。一方が少年の胸へ戻り、もう一方がエトラの文字を包む。
ミナスが大きく息を吸った。
「母さん」
最初に母を呼ぶ。その声に、母親が泣きながら抱きついた。
次に少年はエトラを見た。記憶の扉が開き、いつもの笑顔が戻る。
「エト――」
最後まで呼ばれる前に、瓶の中で彼女の名が砕けた。
少年の口から音が消える。
礼拝堂の記録簿から署名が薄れ、胸元の名札が白紙になる。母親は恩人へ礼を言おうとして、呼びかけ方を失った。
朝日が窓へ差し込む。
少年の名だけが、世界に確かに残った。