朝焼けの診療所
町の動物診療所は、その日で閉まる。
老いた獣医は四十年使った器具を箱へ詰めていた。
後を継ぐ人はなく、隣町の若い獣医が往診地域を引き受ける。
自分がやめれば、助からない動物が出る気がして、閉院日を三度延ばした。
夜明け前、待合室に人が増え始めた。
赤い髪の女性。
片脚を引く少年。
黒い背広の老人。
皆、見覚えのある目をしている。
台風の日に保護した猫。
翼を縫った烏。
車にはねられた犬。
獣医が一度でも助けた動物は、看板へ朝日が当たるまで一度だけ人の姿で戻り、診療所の仕事を一つ手伝える。
猫の女性は床を掃いた。隅へごみを集めるだけで、ちりとりを使わない。
烏の老人は金属器具を光る順に並べ、分類を台無しにした。
犬の少年は箱を運ぶたび褒められるのを待った。
「役に立たない」
獣医が笑うと、待合室が久しぶりに騒がしくなった。
一人の若い女性が入ってきた。
隣町の獣医だった。
引き継ぎ資料を受け取りに来たが、不思議な客たちを見ても驚かない。
「先生に助けられた動物の飼い主から、昔話をたくさん聞きました」
若い獣医は、往診の連絡表を見せた。
町の人が車を出す日。
保護動物の一時預かり。
夜間は遠方の病院と連携する。
一人で旧診療所を再現するのではなく、地域で穴を埋める計画だった。
老獣医は欠点を次々指摘した。
雪の日はどうする。
大型犬は。
費用を払えない家は。
黒猫の女性が診察台へ座った。
「助けた日、全部治しましたか」
獣医は黙った。
治せず見送った命も多い。
助けた後、別の家へ託した動物もいる。
自分だけで最後まで守ったわけではなかった。
奥の扉から、小さな少女が出てきた。
開業初日に診た最初の患者、痩せた子猫だった。
獣医はミルクを与え、近所の家へ譲った。
少女は最後の仕事として、診療所の鍵を若い獣医へ運んだ。
老獣医の掌から、若い手へ。
それだけで朝日が看板へ差した。
人の姿の動物たちは、一斉に元の姿へ戻った。
猫は窓へ、烏は屋根へ、犬は開いた扉へ走り、光の中で消えた。
「恩返しに、閉めさせに来たのね」
老獣医が言うと、若い獣医は首を振った。
「次の診療所を、一人で始めさせないためでしょう」
建物は閉じた。
老獣医は週に一度だけ相談役として、若い獣医の往診車へ乗る。
口を出しすぎれば降ろされる約束だ。
古い看板は外し、地域の保護施設へ渡した。
朝日が当たると、動物の爪痕がいくつも浮かぶ。
助けた命から返されたのは、働き続ける義務ではない。
自分の手を離れても、助ける仕事が別の手と足で続くと信じる力だった。